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[書評]『戦争はどのように語られてきたか』

河出書房編集部 編

東海亮樹 共同通信記者

大義名分はだいたいが神がかる  

 せんだって安倍晋三首相がポツダム宣言について「つまびらかに読んでいない」と発言したときは、「なんと不勉強なことか」と思ったが、あれははぐらかしだったのだろう。

 共産党の志位和夫委員長は、ポツダム宣言の第6項で連合国側が日本の軍国主義を「世界征服」とみなしたことを強調していたが、安倍首相が「自衛のための戦争だった」とでも言おうものなら角が立つ。

 戦争そのものについて論戦をすれば、集団的自衛権をめぐる安保法案審議の妨げになるだろう。安倍首相は戦争について本質的な議論を避け、そして国民の側は集団的自衛権について8割以上が「説明が十分ではない」(共同通信の世論調査)と感じている。

 日本は70年間、戦争をしてこなかった。それはすばらしいことなのだが、戦争というものは何かという議論になじみがなくなったとも言える。

 それもすばらしいことなのだが、外国に自衛隊を派遣して戦争のなかに入っていこうとする政治の動きがあるなかで、気は進まないけれど、戦争を考えることから逃げられないのかもしれない。

 ちょうどよい本が出版された。1930年代から80年代までの特色のある21の戦争論を河出書房新社編集部がアンソロジーとして編んだ。

『戦争はどのように語られてきたか』(河出書房編集部 編 河出書房新社) 定価:本体1900円+税拡大『戦争はどのように語られてきたか』(河出書房編集部 編 河出書房新社) 定価:本体1900円+税
 戦前に、戦争がどのように正当化されたのか、敗戦を知識人はどう受け止めたのか、平和の時代に戦争はどう語られたのかということを知る一助になりそうだ。

 21世紀の今からでは、後出しジャンケンだと言われるかもしれないが、戦前の聖戦論のようなものを読むと、やはりお粗末としか言いようがないし、こんな理屈で300万人の同胞が亡くなったことは虚しすぎるというのが率直な気分だ。

 関東軍参謀の石原莞爾の有名な「最終戦争論」(40年)は、戦争をまるでスポーツトーナメントのようにたとえ、欧米諸国と東アジアが「準決勝」をしていて、いずれはアメリカと日本が「決勝戦」をするという筋立てだ。

 そして日本が勝つだろうという根拠はといえば、日蓮を引き合いに出して、「世界の統一は本当の歴史上の仏滅後二千五百年に終了すべき」というのだから、「戦争の天才」はずいぶんと非科学的だ。

 大川周明「米英東亜侵略史」(42年)は国際情勢やアメリカ政治のそれなりに冷静な分析なのだろうかと読みつつも、最後は元寇の神風が吹き始め、「聖戦必勝」の叫びで締めくくられる。

 暁烏敏「大東亜戦争の理念より新秩序の大法に及ぶ」に至っては、仏教者でありながら「戦争は、神が人類を浄化せられるみそぎばらいの活動である」と言い、外国人を撃退する自信がない者は「天照大神の御意によって肇められた日本国に生きる資格はない」と言い切る。みんなが神がかっていた時代だったと思い知らされる。

 後味が悪かったのは小林秀雄「戦争について」(37年)だろうか。

 小林の日中戦争協力宣言として知られるそうだが、「文学者たる限り文学者は徹底した平和論者である他はない」とぐずぐずと言いつつ、結局は「同胞の為に死ななければならぬ時が来たら、潔く死ぬだらう。僕はたゞの人間だ。聖者でもなければ預言者でもない」と逆ギレをしている。もうどうでもいいというニヒリズムかもしれない。

 それは、竹内好「近代の超克」が注目した京都学派の、乱暴に意訳すると「もう何もかも無なのだから新しい戦争をしてしまえ」という虚無とも通じているように思えた。

 戦前の論文を読むのに辟易としてきたが、坂口安吾「もう軍備はいらない」(52年)の、「戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけでのことでしかないのである。その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない」という言葉に触れると胸がすく。

 戦争が終わった解放感の時代だからだとも言えるだろうが、平和という解放感がその時代の日本にあったことは何度も思い返していいと思う。

 しかし、戦争から時代が離れていくと平和なときに平和を論じることの難しさが現れてくる。戦争体験の記憶が薄れるなかで、戦争は嫌だというだけでは済まないという思想的な壁が生まれてきたようだ。

 その意味で、小田実「平和の倫理と論理」(66年)の、個人がナショナリズムに抵抗しなかった意味で「加害者」でもあったという視点は、戦後の戦争論の地平を開いていったのだと振り返ることができる。

 また鶴見俊輔「平和の思想」(68年)は、一部の宗教や原爆詩人の原民喜にみられたものだが、平和運動というものにかくされた権力欲をかぎつけ、反戦について述べることもせず、いかなる種類の運動にもかかわらず、さらに「無行動」という「戦争のためには自分の指一本あげまい」という平和思想があり得ることに光を当てている。

 これは現在の脱原発に対しても先見性があるのではなかろうか。読めてよかったと思う。

 やくざ映画を見たって分かるが、戦争には大義名分がいる。いま、なぜ集団的自衛権なのかという大義名分はあるのだろうか。

 説明がないのであれば、よく分からなくて当然だ。さらに言えば、戦争の大義というと、日本人はどうしても神がかる「癖」があるのではないかと、この本であらためて感じた。

 安倍首相にぜひ本当の「大義」を話してもらいたいものだ。いや、ほんとに、8割以上の国民とともに分からないのだから。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

東海亮樹

東海亮樹(とうかい・りょうじゅ) 共同通信記者

1968年生まれ。慶應義塾大経済学部卒。共同通信に入社し、宇都宮支局、広島支局、大阪社会部を経て文化部。文化部では論壇、書評、食文化などを担当。地元の東京・深川の地域フリーペーパー「かわら版 深川福々」編集長、ブックカフェ「そら庵」副代表、地元ネーム「深川亭ポレポレ」。ほかに国際都市・錦糸町案内人(未公認)など。「本は栄養、映画は滋養、まちは涵養」が座右の銘。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです