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 パリコレの舞台を最初に踏んだ日本人モデルは、ピーターという愛称で知られた松田和子である。彼女は文化服装学園のモデルスクールで学び、雑誌『装苑』の表紙を飾った。1959年の秋、ルイ・フェローのモデルとして、パリに乗り込んだ。

 松本弘子も松田とほぼ同時期に、ピエール・カルダンの招請でパリコレに出演した。高校時代に見た森英恵のショーに憧れ、ファッションの世界をめざした彼女も、『装苑』のモデルを務めた。

 60年代初頭、この二人の女性によって、欧米人は洋服をみごとに着こなす日本女性を目の当たりにしたのである。

 この後60年代に、ファッションは大きく変わる。マリー・クワントのミニがイギリスから出現し、パリコレも「五月革命」に象徴されるカウンターカルチャー・ムーブメントを横目に見ながら、変化を遂げていく。

 最大の地殻変動は、オートクチュールからプレタポルテへの移行である。若手もベテランもデザイナーたちは、こぞって荘重な仕立て服から若々しく軽快な既成服の世界へなだれこんでいった。

 またこれと軌を一にして、ファッションモデルの世代交代も起きた。オートクチュールのモデルに代わって、大衆消費社会を反映したプレタポルテにふさわしい、新しい身体性を持つモデルたちが登場したのである。

 彼女たちは、複製文化としてのファッションをスピーディーに着替えてみせるバイタリティとフレキシビリティを身上に、旧世代を追い越していった。

 60年代のファッションモデルの代表はツイッギーだが、70年代に入ると、ローレン・ハットンやマーゴ・ヘミングウェイなどの自然志向のモデルがアメリカから現れ、一方ヨーロッパからは、マリー・ヘルヴィンやジェリー・ホールなどの野性的キャラクターが出現する。

山口小夜子=2002年拡大山口小夜子さん=2002年
 ファッションは、身体を覆うものではなく、身体そのものを露わにする媒体と見なされるようになったのである。

 その頃、山口小夜子は、地球の反対側からまったく異質なコンセプトで、欧米のファッション界にやってきた。

 彼女は、もちろんオートクチュールのモデルには見えなかったけれど、欧米の新世代のモデルとも違っていた。

 彼女は衣服を介して身体を主張するのではなく、身体にまとわれて衣服が発揮する優美を提示した。身体と世界が、衣服という境界で戯れあう楽しさを見せようとしたのだ。

 そのために彼女は、表情をあえて殺し、

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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