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[書評]『満洲難民』

井上卓弥 著

上原昌弘 編集者・七つ森書館

涙と怒りで頁を繰る手が止まる、教訓の書  

 満洲からの「引き揚げ者」――いや、こんな言葉では軽すぎる。「難民」――政治的な迫害のほか、武力紛争や人権侵害などを逃れるために国境を越えて他国に庇護を求めた人々(国連難民高等弁務官事務所のサイトより)――こそが、最も正確な表現だ。

 その苛酷さを、2014年に亡くなった哲学者の木田元から聞いたことがある。

 敗戦の4カ月前、木田は海軍兵学校入学のために新京(長春)から日本に帰っていた。満洲にいた家族が木田のもとに戻ったのはそれから1年半後、1946年10月のことだった。母親と姉・弟は栄養失調と腸チフスに冒され、魂の抜け殻のようになっていた。満洲国官吏だった父親はシベリアに連れ去られていた。この話は、竹内敏晴との対談集『待つしかない、か。――二十一世紀 身体と哲学』(春風社)でも語られている。

 五木寛之も、最近の毎日新聞のインタビューにこう答えている。五木は多くの日本人が逃げてきた平壌に住んでいた。

 「身なりはぼろぼろ。死んだ我が子を背中にしょっている人もいれば、歩けない子を引きずって歩く人もいる……(自分も)弱って動けない母親をリヤカーに乗せ、日本人の集まる難民キャンプのような場所を転々とした」(2015.6.25夕刊)。

 ソ連兵は五木が住んでいた舎宅に押し入り、病床にあった母親は混乱の中、敗戦後の9月に息を引き取った。その経緯は2002年に刊行された『運命の足音』(幻冬舎文庫)で初めて明かされたが、五木は「体験したことの100分の1も書いていない」と言う。

 本書は、ソ連侵攻時に、満洲から北朝鮮の郭山(かくさん)という小さな町に逃れた1094名の帰国までの足取りを追ったノンフィクションである。

『満洲難民――三八度線に阻まれた命』(井上卓弥 著 幻冬舎) 定価:本体1900円+税『満洲難民――三八度線に阻まれた命』(井上卓弥 著 幻冬舎) 定価:本体1900円+税
 同じ北朝鮮からの引き揚げ体験を綴ったものとしては、1949年に刊行されベストセラーとなった、藤原ていによる『流れる星は生きている』(中公文庫)が有名である。

 このほか自費出版の手記のようなかたちで刊行されたものはあるが、北朝鮮における日本人難民の全体像を明らかにした本格的なノンフィクションは、おそらく本書が初めてだろう。

 1965年生まれの著者は、もちろん体験者ではない。だが郭山疎開隊の中に彼の祖母と伯母がおり、その意味で「当事者」である。

 そのことは「あとがき」で触れられるだけで、本文ではまったく言及されないのだが、海外の戦争・難民取材の経験もあるジャーナリストであり、かつ、「当事者」であるという立ち位置は、本書に独特の陰翳と静かな迫力を生んでいる。

 郭山疎開隊1094名のうち、15歳までの子どもは564人(うち、7歳以下の乳幼児が400人)。16歳から50歳までの女性が456人。50歳以上の男女が60余人。つまり、ほとんどが子どもと女性と高齢者で、引率してきた満洲国経済部のメンバーを除けば、壮年男性は皆無だった。

 郭山での生活開始直後から食糧は不足。粗末なバラックを厳しい冬の寒さが襲い、腸チフスやはしかなどの伝染病が猛威をふるう。

 非力な母子たちが、毎日のように命を落としていく。郭山疎開隊の死亡率は2割前後で、これは、終戦時に北朝鮮に留めおかれた日本人の死亡率の倍近い。そして、郭山到着後に誕生した新生児34人のうち、生き残ったのはただ1人だった。

 1946年に入ると、長春(旧新京)の身寄りと連絡がつくなどして、約450名が北上し、旧満洲に戻った。しかしそこもかつての満洲ではなく、食糧は慢性的に不足。さらには国府軍と八路軍の国共内戦にも翻弄される。

 本書に登場する井上家の末子・洋一君は、戻ってきた長春で亡くなった。洋一君は奉天で生まれた「満洲っ子」で日本を知らない。軍歌「戦友」が大好きな5歳の男の子で、衰弱して起き上がることができなくなると、父親に「戦友」を歌ってとせがむ。「赤い夕陽の満洲に/友の塚穴掘らうとは」。

 洋一君は「僕を穴のなかに埋めないでね」と言い残して息を引き取っていった。

 郭山に残ったメンバーは、自力での南下を決意する。当時、北朝鮮を掌握していたソ連軍は日本人の移動を禁じていたから、文字通り、決死の覚悟による脱出行である。

 目的地は北緯38度線の南側、開城(けそん)の米軍キャンプ。アメリカはソ連と違って日本人の帰還に協力的だったので、38度線を越えさえすれば、米軍の保護下に入り、日本に戻れるのだった。

 しかしその行程もまた辛酸を極める。手配したはずのトラックはやって来ず、夜間にソ連軍の目を盗んで、徒歩で移動するしかない。強盗に襲われ、隊が分断される。身をひそめていた倉庫が見つかってしまい、「マダム・ドワイ(女を出せ)」と要求するソ連兵が女性を連れ去る。地理が分からないため、道案内を自称する朝鮮人に何度も通行料をむしりとられる。

 荒木家の三男で4歳の征夫君は、栄養失調で消耗しきって歩けなくなり、道端で息を引き取る。母子7人の荒木家は、幼い姉妹が疎開生活中に命を落とし、母も脱出行直前に死亡。征夫君が亡くなったことで、家族は子どもたちだけの3人になってしまった。

 本書ではこれらの事実が、決して悲惨さをセンセーショナルに強調するのでなく、きわめて冷静に客観的に記される。だが、淡々と綴られれば綴られるほど、「こんなことがあっていいのか」という思いが胸に迫り、滂沱の涙で、私は何度もページを繰る手を止めた。

 本書によれば、終戦当時、満洲や朝鮮に取り残された在留民間人は150万人にのぼったという。ポツダム宣言では日本軍の武装解除と早期本国帰還が義務づけられていたため、戦後の日本政府は軍人・軍属の帰還に全力を挙げて取り組み、在留民間人の引き揚げは後回しにされた。

 後回しどころか、ポツダム宣言を受諾する過程で、引き揚げ用の船舶の不足や、国内の食糧・住宅不足を理由に、日本政府は在留民間人の「現地定着方針」を打ち出していた。

 これは「棄民政策」以外の何ものでもない。このことが大量の「満洲難民」を生み、引き揚げに伴う30万人の死者を出す元凶となったのは間違いないと、著者は指摘する。

 2014年、私は加藤完治という帝大を出た内務省出身の教育者なる人物について調査する機会を得た。彼こそは満蒙開拓移民を推進し、満蒙開拓青少年義勇軍を設立して自らの手で8万人を満洲へと送り出した人物である。

 たしかに開拓民自体も中国人を蹂躙し、軍部と結託して虐殺を繰り返してもいた。だが根本的には彼らは無垢である。日本という国を信じ、直接には加藤という満蒙開拓青少年義勇軍研修所所長である人物を信じて開拓民となった。

 それなのに加藤は、終戦後、開拓団とは無関係を装い、A級戦犯として召喚されながらも死刑を免れ、のちに教育界に復帰。「満蒙開拓の父」と称されて1967年まで生きながらえた。

 私は本書を読み、連綿たる子どもたちの死に泣きながら、加藤や日本軍への怒りがどうしようもなく抑えきれなかった。

 ポツダム宣言の内容や、ソ連参戦の情報をいちはやく知った日本軍や満州国関係者が、民間人の保護など考えることもなく、さっさと現地から逃げ出していたのは、よく知られた話である。

 戦争のような異常な状況は、あらゆる人々を反知性の方向に駆り立てるのだろうか。しかし人間は、決してそうであってはならない。そこに抗わなくてはならない。私は、涙と怒りにあふれた教訓の書として、本書を読み終えた。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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