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[書評]『読む漢方薬』

村上文崇 著

井上威朗 編集者

あえて今「中国」の底知れぬ面白さを楽しむ  

 十数年前、学芸書編集者だった私の圧倒的な楽しみは、北海道出張でした。かの地には優れた研究者が多くおられたので、ゲラ打ち合わせ作業をするついでに何人かの著者を訪ねるのなら、安いパックで行く程度の予算は付いたのです。

 なかでも、北海道大学にいらっしゃった中野美代子先生や武田雅哉先生のような中国文学者の著作に憧れていた私にとって、こうした先生方のもとに押しかけ、打ち合わせと称して北の酒と肴に溺れることができたのは、若造の身に余る贅沢な体験でした。

 酒飲み話はともかくとして、中野先生や武田先生が一般向けに記された中国読み物の面白さは、今もまったく色あせません。『西遊記』の沙悟浄はカッパじゃなかった。猪八戒はイノシシではなくブタでなければならない。

 こんな愉快トリビアを膨大な文献から引いて軽快に議論を展開し、やがて中国人の雄渾な想像力を存分に楽しませる。こうした先生方に、私は学芸書を読む快楽を教えてもらったように思います。

 そして、隣国との関係がいろいろと言われる現代になって、あえてその衣鉢を継ぐ企画が現れました。

 本場・中国で修行してきた漢方医・村上文崇氏による『読む漢方薬』です。

『読む漢方薬――ストレスに負けない心になる「人生の処方箋」』(村上文崇 著 双葉社) 定価:本体1500円+税『読む漢方薬――ストレスに負けない心になる「人生の処方箋」』(村上文崇 著 双葉社) 定価:本体1500円+税
 この本、立ててみると上の面がギザギザになっています。新潮文庫などと同じ「天アンカット」という製本で、しおりヒモ(スピン)を付けやすくしているのですね。

 でもこれはコストが高いので、私は一度も許してもらえませんでした。うらやましい。

 ところが開いてみると、紙はザラザラした安いもの(おそらく「アドニスラフ」というやつ)を使ってコストを下げています。

 でもこの紙、時間が経つと日に焼けちゃって変色するから良くないよなあ……と思って見ると、本文の文字がスミではなくて濃いグリーンです。茶色っぽく紙が焼けても読みやすいように、あらかじめ仕込んでるのでしょう。

 コストを考えつつ、古書になった先のことも考えているなんて、にくい造本じゃないですか。

 中のデザインも、注やコラムを考慮して細かく作り込んでいます。作り手の企画への濃い情念が伝わってきて、読む前から何だか嬉しくなってしまいます。

 そして肝心な内容も、実に濃くて面白い。漢方の基礎とする思想を平易に語りながら、紹介されるエピソードは奇天烈なものの連続です。

 首吊り死体の下にある謎の黒い物体が、精神安定に効能ありという。
 水銀化合物を大量に食わせたヤモリを日干しにて粉にすると、処女を鑑定できるらしい。
 皇帝が求めた不老不死の妙薬「太歳」は謎の存在なのに、現代では画像検索でいくらでもヒットする。

 こんな話が惜しげもなく披露されます。そしてなぜか、これらの漢方薬が本当に効くかどうかは、絶妙にスルーされています。それどころか、多くの場合は語られないままです。

 かわりに著者は、文献調査と自らの見聞に細かいボケを織り交ぜながら、これらのエピソードに学ぶべき点を見出し、読者に紹介してくれるのです。

 たとえば、ヒ素は誰でも知っている猛毒なのに、漢方薬として普通に用いられてきました。危なくもヒドい話です。ところがその知見の蓄積のおかげで、今ではある種の白血病の生存率をヒ素が劇的に向上させると判明しています。なんと、怪しい漢方治療の歴史が、最新医療に貢献しているのです。

 そう、問題は「今、効くか効かないか」ではないのです。著者は常軌を逸した数々の話を紹介しながら、中国人たちが重厚長大な歴史の中でいかに人生を楽しみ、新しい世界を切り拓いてきたか、読者に教えてくれているのです。

 人目を気にしながらも他人の粗探しをする、各方面に配慮して縮こまった言動をする。そんな窮屈な現代人は、本書で紹介された漢方をめぐる「バカだけど、濃い」人間的なエピソードの数々に、自然と癒やされていくのです。これが『読む漢方薬』の見事な効能だ、そう私は理解しました。

 それでも、ススキノでビールを何リットルも飲んでしまったような私としては、「二日酔いに効く漢方薬」だけは本書に教えてほしかったのですが、結果は逆でありました。

 西洋医学の方法論を取り入れた最新本場の漢方医でも、酒のダメージを早く抜く薬など処方できない、としっかり書かれています。なんでそこだけ明確やねん。悔しいかぎりです。

 かくして昔の私も、ススキノで某先生と痛飲し、翌日は激しい二日酔いを治すことができないまま、その先生を研究室に再訪する羽目となりました。にもかかわらず、先生はアルコール度数90%のマオタイ酒のフタをあけて杯に注ぎ、私にスウと出してくださいます。

 「井上さん、昨夜の様子ならまだ飲めそうだものね」

 ……今にして思えば、あれは著者相手に泥酔して醜態をさらす若造編集者を、中国流に指導しようという親心だったのでしょうか。

 それにしてもあの迎え酒はキツかった。武田先生、あのときばかりは適当な「飲む漢方薬」をくださっても良かったのではないですか?

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。