「なぜ人を殺してはいけないのか?」
1997年の神戸連続児童殺傷事件は、その後も多くの波紋を拡げた。そのひとつが、少年A逮捕から3ヶ月後のTBS『筑紫哲也のニュース23』での対論企画に出演したある高校生からの問いだった。このとき、出演していた識者たちは回答に窮したという。
それを観ていた作家の大江健三郎は、この問いに対して当時以下のように話している。
私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良しあしとか、頭の鋭さとかは無関係に、子供は幼いなりに固有の誇りを持っているから。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健常な子供を育てた家庭での観察にたって知っていると答えたい。
人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう。 (朝日新聞1997年11月30日付「誇り、ユーモア、想像力 大江健三郎(21世紀への提言)」)
大江のこの回答は、子供を信頼した性善説的なものである。そこでは「まともな子供」という限定をかけ、さらに「誇り」を求めている。言い換えれば「プライドの高いまともな子供なら、そんなことはしないよな」というプレッシャーとして、この言葉は機能する。
しかし、それから3年後、大江の希望的観測は「誇りのない子供」によってあっさりと棄却される。

高校生を乗せ、豊川署に入る乗用車=2000年5月
2000年5月、愛知県豊川市で高校3年生の17歳の少年が、老女を刺し殺した。
元少年Aと同い年の彼は、「人を殺す経験がしてみたかった」と話した。明快すぎるがゆえに不可解なその犯行動機は、世を大きく動揺させた。
彼は、決して「人を殺してはいけない」という社会規範を認識していなかったわけではない。将来のある大人ではなく年寄りを狙い、事件後には逃走していることからもそれは明らかだ。
そこには彼なりのロジックがある。彼にとって「人を殺してはいけない」という規範は、
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