リック・ヤッフェ 著 樋口武志 訳
2015年07月30日
1946年5月3日の極東国際軍事裁判(東京裁判)の初公判で起訴状が読み上げられている時、大川周明は突然、東條英機のはげ頭を後ろからぽかりと殴り、退廷させられた。
米国人精神科医の最初の鑑定では証言能力がないとされ、その後の別の医師たちは証言台に立つ能力があると判断が変わった。しかし、ウェブ裁判長は大川を再び法廷に呼び戻すことはせず、大川は免訴された。
本書は、最初の鑑定で大川の精神障害を認めたダニエル・ヤッフェ医師の孫のジャーナリストが、大川が本当に狂っていたのか、それとも病気を偽っていたのかという謎を追ったルポルタージュだ。
『大川周明と狂気の残影――アメリカ人従軍精神科医とアジア主義者の軌跡と邂逅』(リック・ヤッフェ 著 樋口武志 訳 明石書店)
狂気の真偽だけではなく、なぜ知識人のなかで大川だけが起訴されたのか、再鑑定が出ながら免訴とされたのはなぜかを含め、いまなお解明されていない出来事だ。
著者は近年公開された膨大な公文書の調査と多くの関係者への取材を通して、このミステリーに迫っていく。
その結果はここでは記さないが、大川や東條の近親者の証言や、多くの研究者らの見解などを虚心坦懐に検討していく姿勢は誠実で、かつ謎解きの展開はエキサイティングだ。
しかし、狂気の真偽だけの謎解きで終わらない。むしろ、著者が調査をしていくうちに、「戦争と狂気」というテーマを深く掘り下げていっていることが、本書をおすすめしたい理由だ。
本書は二人の人物の物語が並行して語られていく。大川と著者の祖父のダニエルだ。
大川については、生い立ちから、思想的道程、アジア主義者としての覚醒、クーデターでの暗躍、イデオローグとしての地位確立を丹念に追いかける。そして祖父については、重い精神病の母を持ったこと、現在とは手法の異なる戦前の精神医療、第2次大戦における精神科の軍医の活動などをたどっていく。
大川と祖父はまったく異なる人生を歩んでいるが、大川が思想、祖父が精神病という不確かなものに苦悩し、そして戦争においてそれぞれの役割が与えられると同時に、著者の言葉で言えば「打ち砕かれた」ことが重なりあっていく。
戦時中の右翼思想家としての大川が戦争で打ち砕かれたというと意外かもしれないが、著者はアジアの連帯と解放をうたうことと中国侵略の矛盾に大川が引き裂かれていた事実を偏見なく描写する。
大川は東條が中国戦線を拡大し、大東亜省という植民地統治機関をつくったことへの怒りを周囲に表明し、講演会で自分が満州事変を礼賛したため「日本を予期しない方向へ導いてしまったことに大きな責任を感じています」と語ったことに注目している。
また祖父が目の当たりにした兵士たちの戦争神経症は深刻で、有効な治療法は分からず、休息と励ましを与えるしかなかった。
精神医学への理解が足りなかった時代、精神科軍医への軍幹部からの侮辱は激しく、アフリカ戦線の英雄パットン将軍は神経症を患う兵士を、気合いが足りないと殴ったほどだ。祖父は仕事の重要さに比べ、苦く、挫折の多い従軍だった。
そんな祖父が長い戦争が終わった時に大川を鑑定することになるのは偶然ではないように思えるから不思議だ。その意味では本書は興味深い歴史ドラマでもある。
戦時中、大川は戦争の勝利をすっかり諦めていながら、アメリカの不動産王と空想的な事業を立ち上げようとしたり、何百万人が聞くラジオ講義で「北から来た蒙古は北条が退け、東から来たアメリカは東條が」などと神がかった話をしたりした。
大川は戦時中にすでに正気を失っていたのかもしれないが、著者の「その彼の思想を適用した国も少し正気を失っていたに違いない」という指摘に、はっとさせられた。
大川が戦争によって「打ち砕かれた」ように、国も人々も「打ち砕かれた」ということだろう。扇動者は、自分が間違っていたことに気がついても、勇ましく嘘をつき続け、政治家はそれを利用し、人々はだまされ続ける。しかし分裂した扇動者ほどもの悲しいものはない。
ふと、誰とは言わないが、(小)大川と(小)東條のような人々が大声をあげている今を重ねた。
米国人の著者の言葉はさらに明確だ。
「近年日本の一部で生じている歴史修正主義と、戦時中に大川周明が行った事実の歪曲には危険な類似がある」
著者が公平な態度で歴史を再発見しているだけに、考えさせられることは多い。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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