栗原康 著
2015年08月13日
大杉栄を軸に暴力と支配の問題からアナキズム、テロリズム、恋愛までを論じた本である。われわれは国家・権力から一方的に暴力を振るわれている、という認識が著者の出発点になっている。
『現代暴力論――「あばれる力」を取り戻す』(栗原康 著 角川新書)
原発から放射線が洩れていても、マスコミは「直ちに健康に影響はありません」と政府の発表をそのまま流し、国家は秩序の維持と経済の循環を最優先した。著者はそれを一方的暴力という。
権力の側だけではない。著者の体験した反原発デモでも最初のころは解放感にあふれていたが、1年たつと警察の規制にそってデモが行なわれ、主催者の腕章をつけた人間が、「暴力行為はやめてください」というようになる。
なぜこういうことになるのか。著者は大正時代のアナキスト大杉栄に暴力の思想的意味を探ろうとする。
大杉によれば、生きることは暴力を振るうことだ、しかしいまの世の中では一握りの人間が暴力を独占し、それ以外の暴力を認めようとしないという。
もう一人、フランスの思想家ラウル・ヴァネーゲムの生についての二つの概念も立論の核となっている。
ひとつは「生きたいとおもうこと(Desire of Live)」で、人の生きる力であり、ほんらいの生である。人のあばれる力=暴力もここから生まれる。
もうひとつは「生きのびること(Survival)」で、ただ生存のために生きること、目的や方向性の定められた不自由な生である。ここでは暴力は支配のための道具になっている。
そして著者がいま感じるのは、原発事故以来、生きのびるための権力がやたらに強くなっていることだ。原発推進派にしても反対派にしても、よりよく生きのびようと争っているだけではないか、と。
第1章「国家の暴力」では、大杉栄の、より強い武力を持った部族が他部族を征服することによって国家が始まったとする征服国家説、国家は暴力を振るって人々に奴隷根性を植え付けているとする国家論が展開され、ついでアナキストの先行者幸徳秋水と大逆事件、幸徳の唱えた革命観(水が流れてくぼみをつくるように、革命は自然の勢いで生じるものだ)が紹介される。
幸徳はインサレクション(暴動、一揆)を生きる力として評価し、その死生観は大正期のアナキストにもつながっていったと指摘する。
第2章「征服装置としての原子力」では、国家が絶対的な暴力を見せつけて、人々を従わせようとする(=生きのびさせようとする)のが核戦争の恐怖であり、原子力だとする。ヴァネーゲムはこれを「最後の審判システム」と呼ぶ。
原爆被害を描いたテキストとして中沢啓治の漫画『はだしのゲン』が「めちゃくちゃに面白い」と紹介されているので、近くの図書館で10巻を借りて読んだ。
時代背景もよく描かれた漫画で、たしかに面白かった。そして発見をした。
栗原さんの文章は、たとえば「……暑くて、暑くてたまらない。くるしい。わたしは水が飲みたくなって、カバンをゴソゴソやっていると、となりにいたおじさんが、『ううっ、ううっ』とうめき声をあげている。だ、だいじょうぶか。そうおもった瞬間、おじさんはなにかブツブツいいながら、ひとり警官隊につっこんでいった」といった具合で、リフレインや感嘆詞などが頻繁に出てくる独特の文体だ。
人文・社会科学系の本には珍しい口語調で、この文体は何だろうと思っていたが、『はだしのゲン』の吹き出しのなかに同じような表現を見つけて、はっと気がついた。これは漫画の文体ではないか。栗原さんは漫画の吹き出しの口語的表現を自らの文体に取り入れて、文章にリズムをつくっているのだ。
「原発は、人間の生を奴隷化するもっとも強力な装置」だという。ストライキは労働者が自らの手で生産活動を止め、その圧力を通じて要求を勝ち取る行為だが、原発労働者にはそれができない。1時間でも作業を止めれば大惨事を招いてしまうからだ。
大杉栄は「生の拡充」(生きたいと思う力)を大切にした(第3章)。そのため労働者に奴隷的労働からの決起をうながし、ストライキを資本家との喧嘩と位置づけた。初期には職人気質の強かった印刷労働者が多く結集したようだ。そして1918年、富山の主婦から起こり全国に広がった米騒動に、ストライキ=暴力の可能性を見いだした。
第4章「恋愛という暴力」では、自身の失恋の体験から、大杉のパートナーで自由恋愛の神様ともいわれた伊藤野枝の恋愛観に踏みこむ。どんなに愛し合った男女でも、結婚すると家庭に囲い込まれ、貞操という観念=奴隷根性を強いられると、伊藤は夫婦間の支配の構造を告発する。
家出をして一緒になった辻潤も、その後の大杉栄との関係も例外ではなかった。家庭は集団および人間関係の原型であり、いちばん根っこにあるこの家庭を変えないかぎり、世の中の支配関係はなくならないというのだ。
現代にまで続く問題であろうが、ここは「家庭はいらない、セックスがしたい」と締めくくるのではなく、男女関係への根本的な問いかけを栗原さんなりに深めていってほしかった気がする。
第5章「テロリズムのたそがれ」では、まずロシアのバクーニンのアナキズムが紹介される。
バクーニンは、国家の廃絶を訴え、1849年、ドイツのドレスデン蜂起に加わりシベリアへ流刑されるが、その後脱出、以後ヨーロッパ各地での民衆蜂起に関わった。
著者によれば蜂起の二大原理は、(1)ゼロになること(わが身を省みずに、立ち上がること)、(2)共鳴を呼び起こすこと(自らが身を賭して決起することで人の行動をあおること)である。これは暴動にもテロリズムにもあてはまる。
しかし蜂起も、これだけ自分を犠牲にして戦っているのだから、これくらいの見返りはあっていいはずだと思ったときに「犠牲と交換のロジック」(白石嘉治)に飲み込まれてしまう。「革命が自己犠牲をもとめた瞬間に、革命は存在しなくなってしまう」(ヴァネーゲム)のだ。
これがいちばん顕著に現われるのがテロリズムだという。テロリストは死ぬつもりで行動に打って出るのだから、ある意味では自己犠牲の極限である。
そのためには大義を必要とする。そこで、大義のためには多少の犠牲も仕方がないと、ひとつの尺度から自分や他人を物のように考えるロジックに陥ってしまうというのだ。犠牲を媒介にして、人を交換可能なものにしてきたのが資本主義の論理ではなかったか、と。
そうした思考は、関東大震災で憲兵に虐殺された大杉栄への報復を誓い、爆弾闘争をくりかえした古田大次郎のような、一見、純粋と思えるテロリズムの背後にも潜んでいた。
暴力を振るうことは、生きたいと思うことであり、万人のあばれる力を解放することだ、私たちはいつも暴動を生きていると栗原さんはいう。
ここでいう暴力は、原爆や悪賢い大人たちに立ち向かう「はだしのゲン」の生きたいと思う力=暴力といってもいいだろう。同調性が強く、服従の度合いが高いといわれる日本社会には、こうしたハチャメチャなまでに元気な発想の本はもっと出てきていいのかもしれない。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください