野崎歓 著
2015年08月13日
アンドレ・バザン(1918―1958)は、「ヌーベルバーグの父」と評されるフランスの映画批評家。サイレントからトーキーへ移行した時期に、批評の分野で時代を切り拓いたラディカルな論者で、主に第二次大戦後の1951年に自らが創刊した『カイエ・デュ・シネマ』誌で健筆を振るった。
本書は、『ジャン・ルノワール――越境する映画』(青土社)などで2001年度のサントリー学芸賞を受賞し、その後も『香港映画の街角』(同、2005年)、『文学と映画のあいだ』(東京大学出版会、2015年)などの著書で、透徹したシネマフリークぶりを発揮してきた仏文学者の野崎歓が、この2月に訳出して上梓した『映画とは何か』上・下(アンドレ・バザン著、野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫)に続いて刊行した、バザンの論考をわかりやすく紹介する本であり、同時に、著者自らの文学観にも通底する「映画」への思いを語るものになっている。
『アンドレ・バザン――映画を信じた男』(野崎歓 著 春風社)
その「深さ」は、たとえばバザンが賞賛を惜しまなかったオーソン・ウエルズの『市民ケーン』におけるパン・フォーカス(「近くだけではなく、遠くにも同時に焦点を合わせることによって実現する、奥行きの深い意外性に満ちた画面」)の解説や、ロッセリーニの『無防備都市』や『戦火のかなた』の「証明するのではなく、ただ示す」という姿勢への高い評価、そしてロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』のナレーションにある、原作のテキストを「削除はするが、要約はしない」という態度への肯定的な言及、といった形でじょじょに明らかにされていく。
モンタージュとは、エイゼンシュタインが1925年に撮った『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段」というシーンで有名な技法。同じ対象についての異なるショットを、その間に意識した別のショットを入れて、並べて見せることによって、見る者を作る側の意図に沿った理解へと導く手法だ。
たとえば、水が入ったコップのショットを、喉が渇いたと思しき人物のクローズアップを挟んで、空になったコップのショットと並べれば、その人物が水を飲んだと、目論見通りに解釈されるという仕掛けである。
では極めて便利なこの技法に、二人はなぜ「反」を唱えるのか。
簡単に言えば、そこで発揮される制作者の意図が、映画を観る者たちを、予め決定された一つの方向に向かって誘導することにあるからだ。
つまり、モンタージュには、「パン・フォーカス」によって可能になる作り手の意図を超えた発見のリアリティや、「説明するのではなく、ただ示すこと」によって与えられる自由な解釈の余地や、あるいは「削除はするが、要約はしない」ことで鮮明になる原作のテキスト性といった、映画本来の「自由な外部」という魅力を、制作者の強い意図によって根こそぎにしかねない由々しき危険があるのだ。
だから、本書の主張は、ただ反対を主張するだけに留まってはいない。
著者は、自らの反対に加え、当のモンタージュ理論の代表と目されるエイゼンシュタインが、俗流のモンタージュ論を批判していることにも抜け目なく言及し、「ショットに物語の単位というに留まらぬ生き生きとした力を求める点において、エンゼンシュテインとバザンの両者はモンタージュ/反モンタージュという二分法を越え、期せずして同じ側に立っていた」と言うのである。
その目配りと、「物語の単位というに留まらぬ、生き生きとした力」という言い方には、文学者であり熱い映画フリークでもある著者の、面目躍如としたところがあると思う。
本書の第一章から第四章までは、90年代の後半に著者が奉職していた一橋大学の『言語文化』誌に掲載された初期のバザン論が掲載されている。
続く第五章「『寡黙さ』の話法――バザンと現代映画」と第六章「バザン主義vs.宮崎アニメ」は、2000年代に入ってから台湾と上海で行われた学会とシンポジウムでの発言をもとに構成したという。
年代について言えば、以上の二つの時期に、おそらく1959年生まれの著者の映画の原体験があっただろう70年代後半から80年代にかけての時期と、バザンが活躍した戦後から50年代までの時期とを加え、最後にバザンが「父」と称されたヌーベルバーグの息吹が濃厚に残り、かつアメリカンニューシネマの風が吹いた60年代を並べてみると、本書に通奏低音となって響いている、表現行為としての映画に関する著者の痛切な歴史意識のようなものが仄(ほの)見えると思う。
わたしは最近、近場のシネコンで映画を楽しむことが多い。そこで提供されるのは、反骨精神を失くして久しいハリウッドが巨大な資本を投じて製作した、CGと大音響とに支配された人工的で平板な画面が、お決まりの安手なドラマと手をつないで、大手を振って闊歩している作品が主流だ。
「観る者の自由」のないその手の映画を避けながら感じるのは、本書の末尾にも記されているように、あるべき外部を失くし、「すべてがアニメ化」していく映画の現状に対する、飢餓にも似た焦燥感である。
だが、著者は最後に気丈にも書きつける。「その中でなおも残るはずのリアルな映画の価値を擁護したいと願うとき、バザンの思考はつねにわれわれを力強く励ましてくれる」と――。
その思考の妙を、本書で味わっていただきたいと思う。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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