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[4]老人力をもってしても忘却できなかった事件

赤坂英人 美術評論家、ライター

*体調不良のため、しばらく休載していましたが、改めて連載を復活します。

 この数か月の間、1960年代の「前衛」の時代に関するものだけでなく、ランダムに赤瀬川原平のさまざまな著作のページをめくっていた。

 そのなかで不思議な本だなと思ったのが、赤瀬川の1990年代後半の著作『老人力』(ちくま書房)だった。『老人力』は1998年にベスト・セラーとなり、当時の流行語にもなった本だ。

 「老人力とは何か? 物忘れ、繰り言、ため息等、従来ぼけ、ヨイヨイ、耄碌として忌避されてきた現象に潜むとされる未知の力」

 文庫本の裏表紙に書かれた謳い文句である。「老人力」の中心は「物忘れ」「ぼけ」などの忘却力にある。それは言わば、「物忘れ・イズ・ビューティフル」の思想なのである。

 一見、赤瀬川一流の冗談のようにも、またレトリックのようにも見えるのだが、この「老人力」という不可思議な言葉に込められた「未知の力」は、実はなかなか奥深いように思う。

 例えばそれは、現代ならば高齢化社会の問題や、認知症などの諸問題とも深く関わるし、少し大風呂敷を広げて言えば、生産力の発展に力点を置いてきた「近代」の社会や制度など、モダニズムのすべての思想を否定する契機さえ孕んでいるとさえ思う。もちろん、それは赤瀬川が考えていた「芸術」とも関わってくる。

 赤瀬川は『老人力』のなかで、こんなことさえ語っている。

 「老人力で踏みこむ世界というのは、次から次、死ぬまで未知の局面が現れてくるということでもあって、けっこう新鮮な思いができるんじゃないかって気がする。臨死体験じゃないけど、ヘタすれば死んでからも楽しいんじゃないか、なんて考えたりしてね。老人力の極大は、死んじゃうことだから、老人力を百パーセント発揮して、この世のことはすべて忘れてしまうという(笑)」(『老人力』「宵越しの情報はもたない」より)

 老人力の極大は「死」であると喝破するなど、とても「路上観察」の仲間である藤森照信や南伸坊から「ボケ老人」と呼ばれた人とは思えない過激さである。それとも、老人力の自由さと言うべきだろうか。

「千円札裁判」と「挫折の効用」

 こうしたラディカルな冗談が連続するような『老人力』を読みながら、私にはある意味、対照的なものとして思い出す作品があった。

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