村上陽子 著
2015年09月11日
原爆文学と沖縄文学。破壊的な出来事の記憶を背負って生み出されてきたこれらの文学は、時に称揚され、時に消費されながら、ともに日本文学の周縁に位置づけられてきた。
本書は、原爆文学と沖縄文学を安易に並べる暴力性に無自覚なわけではない。
『出来事の残響――原爆文学と沖縄文学』(村上陽子 著 インパクト出版会)
だが、それだけではなく、広島で育ち琉球大学に学んだ著者の経験のなかに、この二つを結びつける必然的な動機があったと言うべきだろう。
原爆文学と沖縄文学という二つの渦のせめぎ合いの中に身を置き、複数の源流を持つ新たな流れを見出し、その流れに潜む出来事の残響を聞き取ること。
1981年生まれの若き学徒にとっては、この課題設定自体が大きなチャレンジでもある。
本書で取り上げられるのは、以下の作品だ。
原爆文学では、大田陽子「ほたる」(1953年)「半人間」(1954年)、林京子「祭りの場」(1975年)『ギヤマン ビードロ』(1978年)、井上光晴「西海原子力発電所」(1986年)。
沖縄文学では、長堂栄吉「黒人街」(1966年)、大城立裕「カクテル・パーティー」(1967年)、嶋津与志「骨」(1973年)、又吉栄喜「ギンネム屋敷」(1980年)、目取真俊「風音」(1997年)「水滴」(同)。
いずれもよく知られた中短篇小説だが、そこに描かれる痛みや傷に共振する著者の読みが、作者と作品の魂を鮮やかに呼び起こす。とくに、本書の前半に置かれた大田陽子論が力作だと思う。
原爆文学と沖縄文学を行き来する構成において全体を貫くのは、「出来事の当事者/非当事者の間に存在する分断は乗り越えることが可能なのか」という問いである。
『ギヤマン ビードロ』では、同じ被爆者だからといって彼らが体験を共有しているわけではないことが明らかにされる。あるいは、「ギンネム屋敷」では朝鮮人が、「風音」では遺体となった特攻隊員が、「水滴」ではかつて自分が見捨てた死者が、沖縄戦の記憶を了解可能な物語として成立させることを拒み続ける。
だが、出来事を体験していないことを「負い目」だと感じるとき、読者はすでにその出来事に巻き込まれているのである。
著者は言う。
「一つの出来事への直面が、別の出来事に対して扉を開くことがある。(中略)自分自身が傷を負っていることに気づくとき、その傷にはすでに誰かからの、何かからの呼びかけが潜んでいるような気がしてならない」
ここで示されているのは、文学や想像力の意味にほかならない。そして本書は、果敢な論述をもって、そのことを説得的に示しているのである。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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