吉村文成 著
2015年09月17日
戦後70年ということで、戦時下の子どもの暮らしを紹介した本がたくさん出版された。
かくいう筆者も、8人の児童文学作家に、子ども時代に体験した戦争をインタビューした『わたしが子どものころ戦争があった』を、理論社から上梓したばかりである。
自著も含め、多くは大人になってから当時の体験を紹介するものだが、この本は、敗戦間際の1944年4月5日から45年3月19日までの188日分の、少女たちが書いた学級日誌をまとめたものだけに、ライブ感にあふれていて貴重だ。
『1944~1945年 少女たちの学級日誌――瀬田国民学校五年智組』(吉村文成 著 偕成社)
このクラス名といい、男女への割り振りといい、いかにも戦時下らしい。
当時5年智組担任の西川綾子先生が、戦時下で、まっとうな子ども文化も享受できないなら、自分たちで文化を作ろうと考えて、放課後子どもたちに書かせたのが、この絵入りの学級日誌である。
戦時中の教育記録などは、進駐軍に見つかるのを避けて焼却されたりすることが多かったが、西川先生は自宅の押し入れに隠して保管していたために、絵も色あせず鮮明なまま残されたのだという。
日誌は、細かに書かれた毛筆の文章と、色鮮やかな水彩画で、相当時間をかけて丹精して仕上げられたものと思われる。
最初は、44年4月5日の入学式から。「私たちは決戦下の少国民として、一生けんめい勉強してお国のためにつくします」と、なかなか健気である。
翌4月6日。学習園と呼ばれていた学習農園で野菜の世話をするのだが、「今年は大東亜戦争にかつため、私たちの手で、うでで、ぞうさん(増産)にはげみましょう」と日誌は結ばれる。
4月8日は「大詔奉戴日」。米英と開戦した41年12月8日に、天皇の詔勅がラジオで代読されたのだが、これを記念して翌年の1月8日から、毎月8日を大詔奉戴日として、どの家も日の丸を掲げ、子どもたちもお宮にお参りし、武運長久を願うようになっていた。日誌には、「私たちは兵隊さんにまけぬように一しょうけんめいがんばりましょう」と記されている。
4月29日は天長節。前日から最敬礼や唱歌の稽古をし、「つめをきり、あかをおとして元気にきましょう」と、天皇誕生日を迎えるために身を清めることの必要性を記している。そして当日の日誌には、修身を読み「君が代」を合唱し、校長先生から「いろいろありがたいお話しをきき」「今日のよき日に、天皇の御たんじょう日は大へんおめでたいです」と書いている。
「遠足」は「行軍」になり、お祭りでは戦争に勝つようにとお宮に祈り、「今はひじょうじ(非常時)ですから、きものはきません」と言い、5月5日の端午の節句には、鯉のぼりの下で万歳している子どもたちの絵とともに、「私たちは、つよい元気な子供になりましょう。そうして、山本五十六元帥につづこう」と勇ましい。
翌5月6日には、古賀連合司令長官の戦死を校長先生から聞き、感謝の黙祷をささげ、その日は防空訓練も行われ、「学校へせっかく行ったのにべんきょうをしないでかえった」とある。
5月に入ると、「私たちは毎朝毎夜、早く日本が大東亜戦争に勝つようにおいのりしております」とある。少年兵が海軍志願したので5年生以上が神社にお参りしたり、音楽の時間が体操になったり、また日誌を書いていると千人針がまわってきたりする。
6月になると、武道の時間が取り込まれ、「私たちは、うれしくてたまりません」と言い、「かかえ刀」「たて刀」「中断かまえ」などを習い、「武道も敵をふせぐためになるのです」と、鉢巻を巻いて木刀を持ったブルマ姿の少女が描かれて、銃後の護りが小学5年生の少女たちにも課せられてくる。
出征する兵士の壮行会が増える。都会から疎開してくる子どもも増える。9月になると集団疎開の子どもたちが来る。
10月12日の日誌には、「きのうは沖縄・宮古島に、敵機が四百機も来ました。戦は一日一日とはげしくなって、決戦の月だそうです」とあるから、子ども心にも戦況の厳しさがうすうす感じられたのだろうか。
12月になると空襲警報が発令され、出征した兵士がたくさん戦死して町葬が行われる。教室にも、二人の級友の父親と兄の写真が飾られ、ニンジンや大根が供えられる。しかしそこに悲壮感はない。
45年になると戦況はますます厳しくなって、警戒警報や空襲警報が頻繁にあり、B29の編隊が上空を飛ぶ。その姿が克明に描かれているくらいだから、相当の低空を飛んだのだろう。
2月13日、「いつもいつも、空に来ているB29を一機でも、わたしたちがたたきつぶしましょう。空を護るのは我らのつとめ」と、防空頭巾を被って、火消用のモップを付けた長い竹棒を持ち、緊急医療鞄を下げた少女の姿が描かれている。
「いつもいつも」と言うのだから、B29やグラマンがしょっちゅう来ていたのだ。そのような中でも、少女たちは極めて冷静に淡々と日常を記録していく。そこには、暮らしの隅々から言葉の端々まで、戦意高揚と皇国民教育の徹底が見事に反映されていて、少女たちはあくまで前向きだ。
この本の解説者は、「戦争の時代といえば、陰気な抑圧の時代というイメージ」があると言い、それに対して、この日誌から感じられる「明るく自由な」絵や文章に注目する。そしてこの日誌の「ふしぎな明るさ」を育てたのは、当時としてはユニークな、この学校の校長と担任教師の存在によると述べている。
確かにそれもあるであろう。しかし、戦時下に少年少女期を過ごした人々の話をさまざまに聞くかぎり、陰鬱さばかりではなく、その間隙を縫うように子どもならではの遊び精神が横溢してもいた。
緊迫した状況下だからこその、エキサイティングで特異な快感もあっただろう。どのような状況下にあっても、子どもだからこそ原初的に持ち備えている動物的ともいえる生命力やエネルギーは、一種のカタストロフィー願望も内包しながら明るさに彩られて発現する。
そしてここで見逃してはならないのは、記録したのが少年ではなく少女だったということだ。
戦意高揚と皇国民教育に染まりながらも、少年のように兵士として戦場に雄飛する夢を抱くことなく、銃後を護るという役割を教育されたがゆえに見えていた、微細な感性である。
模型飛行機がなかなか思うように飛ばなかったことへのこだわり、戦地に赴く人たちを見送るさりげない描写、「国のために戦死して下さったお家は、お手伝いに行きたいと思います」といった文章には、少女だからこその、残された家族への思いがさりげなく表出されている。
緊迫した戦時下でもなお、平和を希求する少女たちの眼差しが、そこはかとなく感じさせられるところが心を打つ。日誌の合間に挟まれた解説では、戦時下の暮らしや特殊用語が、当時の写真や日誌の中の絵を抜き出して丁寧に説明されていて、実に巧妙な本作りになっている。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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