ブントとSEALDs、新しい発想と身体性
2015年09月29日
1960年のセヴンティーンについて、少しまとまった文章を書いたことがある(『「若者」の時代』2015)。浅沼稲次郎を刺した山口二矢、ボクサーのファイティング原田、小悪魔の異名を取った加賀まりこ、「ウホッホ探検隊」を書いた干刈あがた。彼らはみな、安保闘争の1960年に17歳だった。
WEBRONZA連載「若者たちの時代」/単行本『「若者」の時代』
彼らの共通項は、純粋な理想や理念に憧れ、そこに不純や通俗や常識を持ち込むのを極端に嫌うところにあった。いわば「偽モノ」を強く嫌悪したのである。
全学連主流派の上部団体は、1958年に結成された共産主義者同盟(ブント)である。
創設にかかわった島成郎(しましげお)を中心とする学生共産党員たちは、公然と党中央に反旗を翻し、日本唯一の革命組織とされてきた共産党に対抗する組織をつくりだした。
ブントが打ち出した路線のなかでもっとも鮮明なのは、「世界革命」である。
これはたんにスターリン由来の一国社会主義革命論への反論にとどまらなかった。冷戦構造のなかで安定と延命を図る「現代世界秩序」をまるごと批判し、返す刀で国内の中途半端な反体制派を批判するメッセージだった。
ブントの機関誌『共産主義』創刊号の巻頭論文に冠せられたタイトルは「全世界を獲得せよ」だった。生田浩二と共同執筆した島成郎は、「『世界』を『革命』しようとして迸った私の心情を象徴するものである」と書いている(島成郎『ブント私史――青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』1999)。
1960年は、戦後社会が「復興期」から「成長期」へ転換した年である。
すでに1958年から始まった「岩戸景気」によって、かつてない好況が出現していた。高度経済成長のエンジンは回り始め、日本経済は安定的な上昇期に入っていた。岸信介の後をついだ池田勇人が「所得倍増計画」を打ち出す素地は十分に整っていたのである。
ブントの革命論は楽天的で開放的だった。あえていえば、好況期の発想に満ちていた。
『共産党宣言』から引いた「全世界を獲得せよ」というタイトルには、右肩上がりの成長曲線に青年期の自己拡張が折り重なったような趣がある。
また組織論には無頓着で、たとえ安保闘争のなかで崩壊しても、そのあとに新しい革命政党が生まれればいいと言い切った。
併せて述べれば、ブントは激しいデモや果敢な突入闘争で、事態の切迫度をアピールした。マスメディアは「赤いカミナリ族」と書いたが、そこには彼らの身体性がもたらす爽快感への賛辞も含まれていた。
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