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60年と15年の「安保闘争」は何が違うか(中)

ブントとSEALDs、新しい発想と身体性

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

運動を支えた主体

 1960年のセヴンティーンについて、少しまとまった文章を書いたことがある(『「若者」の時代』2015)。浅沼稲次郎を刺した山口二矢、ボクサーのファイティング原田、小悪魔の異名を取った加賀まりこ、「ウホッホ探検隊」を書いた干刈あがた。彼らはみな、安保闘争の1960年に17歳だった。

 彼らの共通項は、純粋な理想や理念に憧れ、そこに不純や通俗や常識を持ち込むのを極端に嫌うところにあった。いわば「偽モノ」を強く嫌悪したのである。

国会周辺をデモ行進する全学連の学生たち 拡大「60年安保」で、国会周辺をデモ行進する全学連の学生たち
 この傾向は、当時の日活アクション映画にも、60年安保全闘争の最先端にあった全学連主流派にも共通している。

 全学連主流派の上部団体は、1958年に結成された共産主義者同盟(ブント)である。

 創設にかかわった島成郎(しましげお)を中心とする学生共産党員たちは、公然と党中央に反旗を翻し、日本唯一の革命組織とされてきた共産党に対抗する組織をつくりだした。

 ブントが打ち出した路線のなかでもっとも鮮明なのは、「世界革命」である。

 これはたんにスターリン由来の一国社会主義革命論への反論にとどまらなかった。冷戦構造のなかで安定と延命を図る「現代世界秩序」をまるごと批判し、返す刀で国内の中途半端な反体制派を批判するメッセージだった。

「全世界を獲得せよ」

 ブントの機関誌『共産主義』創刊号の巻頭論文に冠せられたタイトルは「全世界を獲得せよ」だった。生田浩二と共同執筆した島成郎は、「『世界』を『革命』しようとして迸った私の心情を象徴するものである」と書いている(島成郎『ブント私史――青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』1999)。

 1960年は、戦後社会が「復興期」から「成長期」へ転換した年である。

 すでに1958年から始まった「岩戸景気」によって、かつてない好況が出現していた。高度経済成長のエンジンは回り始め、日本経済は安定的な上昇期に入っていた。岸信介の後をついだ池田勇人が「所得倍増計画」を打ち出す素地は十分に整っていたのである。

 ブントの革命論は楽天的で開放的だった。あえていえば、好況期の発想に満ちていた。

 『共産党宣言』から引いた「全世界を獲得せよ」というタイトルには、右肩上がりの成長曲線に青年期の自己拡張が折り重なったような趣がある。

 また組織論には無頓着で、たとえ安保闘争のなかで崩壊しても、そのあとに新しい革命政党が生まれればいいと言い切った。

 併せて述べれば、ブントは激しいデモや果敢な突入闘争で、事態の切迫度をアピールした。マスメディアは「赤いカミナリ族」と書いたが、そこには彼らの身体性がもたらす爽快感への賛辞も含まれていた。

SEALDsの思想

「SEALDs TOKAI」の初めての街頭活動。メンバーらがスピーチした=13日午後7時13分、名古屋市中村区のJR名古屋駅前拡大「立憲主義」というコンセプトに身体性が結びついた「SEALDs」=JR名古屋駅前の「SEALDs TOKAI」の活動
 ブントと並べるには無理があることは承知の上で、SEALDsという若者集団の思想を、内容ではなく、モードとして観察し、比較してみよう。
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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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