長谷川宏 著
2015年10月22日
在野の学者として、西洋哲学・文化研究やヘーゲルの翻訳などに画期的成果を残す著者が、日本の精神史に挑んだ。その十数年に及ぶ取り組みの成果をまとめあげたのが、本書だ。
著者は、「人間が自然とともに生き、社会のなかに生きていく、その生きる力と生きるすがた」が精神であり、「精神は一人の人間のうちにも、少人数の集団のうちにも、もっと大きな集団や共同体のうちにも見てとれる」としたうえで、本書では日本の縄文時代から江戸時代までの、人びとの精神のありようを時代順に追う。
専門とする西洋の学問ではなく、「若い頃から親しんできたこの国の造形品や書物」を相手に考察するというのだから、意外性も手伝って、期待感はいや増す。
実際、読後に期待感は満たされる。満たされるどころか、本書に促された思考が広がっていって収拾がつかない、というのが偽らざるところだ。
本書に触発されたテーマや受け取った課題を印象の強い順に挙げれば、日本人にとって自然や四季が持つ意味の大きさ、仏教が日本人に与えた衝撃の大きさ、日本語のすがたの多様性、作品と受け手の間にある共同性とは何か、美意識が思索に及ぼす影響は何か……などである。
考えたい事柄は尽きず、とても論じ切れそうにない。また、それぞれに応じようとすれば、複数人による複数の論文が必要になるような性質を、上・下併せて1000ページに及ぶ大著である本書は持っている。
そういう本書の肝をあえて言葉にすれば、タイトル通り、考察の対象が精神であることと、各章・各事項の取捨選択の妙にあるだろう。
精神を対象とすることで、書物以外の事物や現象や作品――火炎土器や土偶、銅鐸、古墳などの遺跡、寺院・寺社の大小建造物や仏像彫刻、絵巻物や絵画、能や狂言、浄瑠璃・歌舞伎などの演劇、茶の湯という共同の場などなど――も、精神を読み取る材料として論じられることになる。
これら、書物以外の事物や作品から人びとの精神を読み取っていく著者の思考の流れ、文章の運びはとくに美しく、かつ真に迫ってくるのだ(「伴大納言絵詞」に描かれる応天門の炎上を、どうしてこんなに恐ろしく感じるのか。「松林図屏風」が自然との交感を呼び覚ます作品であると、なぜこんなに深く納得できるのか)。
こうして主に美術、演劇、建築の分野が考察対象に入ることで、政治史や社会史では論じられることの少ない民衆史・生活史の方面に光が当たる。
また、著者の思考の流れと文章の運動そのものが、これまでは歴史の表舞台に上りにくかった出来事を浮上させている(例えば、「写経」という事業や東大寺再建が持った意味など)。
かといってもちろん、著名な文学作品や思想書などの奥に精神を読み解く文章に美しさがないというのではない。
それらについて語る一語一語からも、作品への繊細な愛情と、読み解く行為そのものが生む喜びが伝わってくる(『万葉集』『古今和歌集』『伊勢物語』をはじめとした和歌や芭蕉の俳句への注釈が、なぜこれほどわかりやすいのか。近松の世話浄瑠璃、宣長の『古事記伝』で描かれる場面が目に見えるようであるのはなぜか)。
各章・各事項の取捨選択の妙といったのは、一人の著者による通史を読むときの最大の醍醐味は、どういう事実をどう取り上げ、それらをどのように関連づけ配置するのかにある、ということと関係している。
鎌倉初期の僧・慈円が著わした歴史書『愚管抄』を扱った章で、著者は「素材はあくまで素材だ。その軽重や質の高低を判断し、取捨選択し、たがいに関連づけ、そうやって歴史の筋道や事の真相にせまるのでなければならない。それが歴史を書くということだ」と述べるが、まさにこの言葉の通りである。
著者がどういう事項や作品を取りあげ、何を選んでいないのか、本文のなかではある事柄がどの文脈に置かれるかを味わうことにも大きな楽しみがある。
そうして本文に入りこめば入りこむほど、精神のすがたの多様性に触れるほど、精神を歴史として理解することの難しさを痛感する。
だからこそ同時に、「精神そのものがゆたかだ」(あとがき)とする著者の言葉に感じ入る。精神をめぐる問いに終わりはない。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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