メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[書評]『失われてゆく、我々の内なる細菌』

マーティン・J・ブレイザー 著 山本太郎 訳

松澤 隆 編集者

抗生物質は《沈黙の春》をもたらすのか  

 近頃、これほど夢中になった本はない。著者はニューヨーク大学の微生物学教授で、米国感染症学会の元会長。原題は《Missing Microbes》。

『失われてゆく、我々の内なる細菌』(マーティン・J・ブレイザー 著 山本太郎 訳 みすず書房) 定価:本体3200円+税『失われてゆく、我々の内なる細菌』(マーティン・J・ブレイザー 著 山本太郎 訳 みすず書房) 定価:本体3200円+税
 ヒトを感染症から守り、命の危機から救う抗生物質が、むしろヒトの生活と生存に恐るべき影響をもたらすことを、豊富な実例と分かりやすい文章で警告した、驚くべき一冊だ。

 分かりやすさの功績は翻訳にもあるだろう(訳者は長崎大学熱帯医学研究所教授で、2011年に『感染症と文明――共生への道』という良書を著している)。

 「抗生物質の副作用は常識。副作用がない薬なんてない」という方も、本書には衝撃を禁じ得ないはず。

 抗生物質がよく効き、ヒトの「常在細菌」の働きも封じた結果、何が起きているのか。もはや「副作用」の次元の話ではない。

 まず、今や悪名高いピロリ菌(カバー写真)と、ヒトとの関係が象徴的に語られる。

 細菌学の急発展は19世紀末~20世紀初めで、当時多くの細菌が発見されたことは高校生でも知っている。しかし、20世紀の医学界は或る時期まで、胃液が強酸性であることを盾に、胃に細菌が宿るのを認めなかった。

 やがて「発見」の遅れを取り戻すかのように、ピロリ菌は抗生物質という武器で徹底的に消し去られる。この細菌は、胃がんの原因とされたからだ。

 瞠目するのは、因果関係を解明する決め手になったのが、1900~1919年に生まれた日系ハワイ人男性という報告だ。

 大戦で「抜群の功績を上げた」陸軍第422連隊の元兵士たち(健在の何人かを扱ったドキュメンタリー映画が数年前日本でも公開された)。彼らは差別に耐え、戦場で「四肢と命を危険にさらし」た。そして戦後は、数十年にわたる生活歴を「祖国」に提供し、医学(と医薬産業)に貢献した。退役軍人のカルテは、ピロリ菌の発ガン性を証明したのだ。

 だが現実は、喝采で終わらない。ピロリ菌の消滅が何をもたらしたか。食道組織の障害(「バレット食道」)である。

 この障害は以前の6倍に増え、80%の割合で食道ガンを惹き起こした。つまりピロリ菌は、本拠地である胃に対してときに「悪さ」をするが、ふだんは胃液の高酸性を中和する働き手だったのだ。そのピロリ菌を失うことで、酸性度の高い胃酸が食道という隣家に逆流し、荒れ狂うのである。

 著者は嘆く。ヒトとピロリ菌は「綱渡りをする芸人がバランスをとるように」「お互いに適応してきた」、しかし今や、「相手のいないダンス」が始まってしまった、と。

 「相手のいないダンス」は一場だけですまない。それは、ヒト内部の「生物多様性」の喪失を意味する、からだ。

 ヒトにはかつて兆を数えるパートナー「常在細菌」が生息した。多くは「悪さ」をせず、ヒトの免疫系・神経系の重要な担い手となる。だが20世紀前半「発見」されたペニシリンに始まる抗生物質の投与が、「悪さ」を消すとともにヒトとの関係を乱した。凶悪な感染症を防ぐ大功を立てた抗生物質が、他の細菌の活躍の場を奪う(凶悪な連中の一部は「耐性」を身につけヒトに復讐もする)。

 また「とりあえず」処方された乳幼児への抗生物質が、十数年後に様々な障害を生む。「常在細菌」消失の実例として登場するのは喘息、花粉症、肥満、糖尿病。自閉症もそうだという。

 例えば、肥満との関係は、畜産業者が長年(感染症予防の名目で)抗生物質を家畜に投与し、成長を促進させてきたことで実証された。

 この結果、すでに欧州では畜産物への使用は慎重になった。だが、米国の医薬業界と畜産業界の相互依存は続く。患者として抗生物質の投与を拒むことはできる。しかし、消費者として肉や乳製品をどこまで避け得るのか(TPPの影響は……)。

 また、自閉症との関係は、腸内細菌の構成が脳の初期発達に関与していることで証明される。幼時の抗生物質の投与が腸から脳に伝わる信号の認識を阻害し、その結果、自閉症を起こしやすくする。

 さらに、抗生物質を伴わない「無菌環境」の危険性も説明される。帝王切開による出産だ。胎児は膣を通ることで、膣に生息する母体の貴重な細菌を受け継ぐ。

 だが、子宮から取り出された胎児は、それを継承しない。著者は豊富な調査結果から、帝王切開の場合とそうでない場合、前者の胎児のほうがいかに疾病が発症しやすいか、詳細に報告する(もちろん、母子救命のため緊急を要する帝王切開は否定されない。医師である訳者も「あとがき」で強調する)。

 抗生物質は先の大戦で実用化され、その威力は「細菌を永遠に」「完全に打ちのめす」と信じられた。つまり、「抗生物質は原子爆弾」と同じ「科学の進歩」だったと、著者は冷徹に振り返る。後者の運命、核の脅威がもたらす未来について、我々は理解し始めている。

 では、抗生物質の未来はどうか。著者が示すその驚くべき解決策、それは……実際に読んで確かめてください。むしろ最後に紹介したいのは、著者が10代でR・カーソンの『沈黙の春』から「相互関係性」の意味を学んだという告白だ。

 そう、ヒト自身が、関係性を狂わされ危機にある、一個の環境なのである。

 *ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。