中村寛 著
2015年11月13日
人が叫ぶのはどんな瞬間だろうか。著者は冒頭から、読者を本書の核心へと引きずり込むようにそう問いかける。
『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(中村寛 著 共和国)
マンハッタン北部の110丁目から155丁目にかけて広がるこの地域は、「黒人文化のメッカ」として讃えられる一方、「貧困・犯罪・ドラッグの蔓延」といったイメージによって、スラム街やゲットーという負の記号に結びつけられてもきた。
現在はおもに西アフリカからのニューカマーが流れ込み、大規模な再開発が進められることでその風景は変貌しつつあるが、そこに住む者を抑圧し、分断し、排除しようとする力は、依然としてゆるぎなく、しかも見えにくいかたちで存在している。
9.11直後のハーレムを約2年間にわたって記録した本書で描かれるのは、イスラーム脅威論が強まる国でマイノリティとして生きるアフリカン・アメリカン・ムスリムの姿であり、アメリカ社会にはたらく暴力とそこに生じる痛みや苦しみの様相であり、また、そうした暴力や痛苦に向き合い、どうにもならない状況と折り合いをつけるなかで生まれる表現や語り、社会活動、文化運動のあり方である。
本書に登場するムスリムたちは、自身のコミュニティにおいて、FBI(連邦捜査局)や地元警察による監視、白人からの人種差別、アフリカ人移民との確執、家賃高騰にともなう転居要請、信仰をめぐる仲間どうしの諍いなど、さまざまな困難に直面している。
それと名指すことのむずかしい複数の文化的境界に仕切られ、日常的に侮辱される彼らは、数多くの不満を言葉にし、鬱積したり、煮詰められたり、発酵したりした苛立ちや憤りを、ときには自己矛盾するような仕方で表明する。
それはまさに叫びとなって、しかし誰に受けとめられることもなく、路上やモスクや集会場の中空で、孤独に響いていた。
ただ生きて、ただ存在するということがすでに多くの力を必要とする場所で、ひとつの叫びのうちに、数えきれないほどの怒りや嘆きや悲しみが凝縮されたこの場所で、遠く日本からやってきた若き人類学者は、そうした声が殺され、かき消され、処理されていくまえに、捉え、つかみ、身体に刻みつけようとする。みずから望んだわけでもない闘いに、彼らの意思と責任とにおいて、文字どおり命をかけて臨む人たちのあらがいを、目に焼きつけようとする。
著者がハーレムでの調査を終えてから本書が成るまで、およそ10年。当時は見えずに埋もれていた多くの意味が浮かび上がるには、それまでの自分を壊し、その経験のなかに身を置きつづけることが必要だったにちがいない。
この時間が、表層的な現象だけでなく、非言語的な身ぶりやふるまい、あるいは人びとのやりとりのなかで生じるディスコミュニケーションなどへの繊細で深い洞察を可能にした。
「ありえたかもしれない生」と「こうでしかありえなかった生」のあいだで、人はけっしてうずくまるだけではない。
本書は、見えにくい暴力の位置とそれを形づくる構造をえぐり出すと同時に、何よりもそのことを、抑制的な筆致の奥に静かな怒りをみなぎらせながら、読者に突き出しているように思える。人類学者の名にふさわしい、きわめて人間的な作品である。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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