ジョージ・ソルト著 野下祥子 訳
2015年11月13日
僕はたまにしかラーメンを食べないけど、いまひとつ食べ足りなかった飲み会のあとで寄り道するのはやっぱりラーメン屋さんだし、ラーメンとなると一家言ある人もけっこう多い。
出版物でもジャンル別のグルメガイドでは「ラーメン」が断然トップだ。まさに「国民食」と言えるだろう。
とはいえ、この本を読んでも、旨いラーメン屋さんの情報はまったく出てこないし、ラーメンを無性に食べに行きたくなるわけでもない。
そもそも東アジアの歴史研究者である著者(ニューヨーク大学准教授)もどの程度のラーメン好きか判然としない。この本はラーメンを食べるための本でも、ラーメンじたいのウンチクを語る本でもなく、ラーメンを素材にして、戦後日本の姿を映し出した極太の本なのだ。
『ラーメンの語られざる歴史』(ジョージ・ソルト著 野下祥子 訳 国書刊行会)
この要因には米不足もあったが、冷戦にともない、食糧不足が共産主義思想の拡大につながることをアメリカが警戒し、同時に、供給過剰だった小麦を日本に輸出したいというアメリカの目論見が背景にあったことが指摘される。
アメリカの農業政策とラーメン普及の相関は、のちに開発されたインスタントラーメンでも事情は同じで、日清食品と取引していた三菱商事が「ラーメンからミサイルまで」というよく知られたスローガンを掲げたことは象徴的だ。アメリカと日本の経済的力学がラーメンの一般化と不即不離の関係にあったのだ。
また、あさま山荘事件(1972年)で警官が厳寒の山中でカップ麺を食べる様子がテレビに映し出されたことがカップラーメン人気に一役買ったという有名なエピソードがあるが、こうしたメディアとラーメンの関係性や、ラーメンの普及で主婦の調理時間が短縮され「母性と女性らしさ」が失われるという議論が起こったことなど、時代とラーメンの併走ぶりに興趣が尽きない。
こうして読み進めていくと、80年代以降、「ラーメンの鬼」佐野実の「支那そばや」など「支那」の語が堂々と復権したことを、中国を「シナ」と呼び続ける石原慎太郎氏や「新しい歴史教科書をつくる会」が出てきた時代性と並べて語るところも、牽強付会という気がしつつも、つい納得させられてしまうのである。
それにしても、ラーメンは「出世」した。本書のカバーには、屋台で立ち食いする中年男性のノスタルジックな写真が使われているが、今やラーメンは若者の消費文化の一象徴でもある。
リヤカーの屋台はすっかり珍しくなり、おしゃれな格好をした若者がカウンター内にいたり、女の子が行列する、カフェと見紛うような店も増えた(ちなみに、僕の家の近くには、カウンターにナプキンと立派な箸が並べられ、ドリンクメニューにグラスワインを置く、ワインバーもどきの店がある)。
さらに、ラーメンの海外進出は、「日本文化の創意工夫」の表れとして、日本の誇るべき食「RAMEN」に格上げされた。そこには戦前、日本の港湾都市で店を開いた中国人の姿は遠景の彼方にすらない。
このあたり、この本で随所に紹介される、映画でのラーメン/ラーメン屋さんの描かれ方によく表れている。1930年代以降の小津安二郎の作品、『一人息子』『お茶漬の味』『秋刀魚の味』や成瀬巳喜男の『晩菊』では、ラーメンを食べるシーンが「階級」「世代」の違いを表す小道具として使われていたのに、時代につれて、ラーメンじたいが主役の映画『タンポポ』(1985年)や、ラーメンづくりの修行をするアメリカ人女性を描いた『ラーメンガール』(2008年)が撮られるようになる。
もはやラーメンは、アニメやファッションなどと並ぶ「クール・ジャパン」のアイテムになったということだろう。
ラーメンは、主菜、主食、スープ……といろいろなものが一緒くたに入っていることから「一つの小宇宙」と呼んだ人がいるが、まさにラーメンは政治経済と「文化を形づくるプロセスをのぞき見る窓」。
今年(2015年)が戦後70年であることがすっかり忘れ去られたかのような昨今、ラーメンの丼に凝縮された日本の戦前/戦後史を再発見するのも悪くない。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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