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[1]稀有の女優・原節子を偲ぶたった一人の通夜

末延芳晴 評論家

電話を前に声を上げて……

 原節子が、肺炎が原因で、9月5日に亡くなったことは、11月25日の夜、初めて知った。

 その夜、11時ごろ、寝る前に最後のチェックをとメールを開いたら、東京の友人二人から「訃報」と題して、メールが入っていた。

 二人がほぼ同時に「訃報」と題してメールを送ってくるとはただ事でない。どちらかの奥さんが亡くなった? それとも共通の学生時代の友人がまた一人逝った?……不吉な思いが頭をよぎるなか、メールを開いてみると、どちらも「原節子さんが9月5日に逝去されていたことが、テレビのニュースで報じられている」というものだった。

「東京物語」 (C)1953 松竹株式会社『東京物語』 (c)1953 松竹株式会社
 友人たちのメールからは、彼らがかなりショックを受けている様子が伝わってきたが、私のそのときの反応は、意外に冷静で、「やっぱりな、原さんらしいな」というものであった。

 なぜそういう反応だったのか。

 理由は、かねてそういう死に方をするだろう、ひょっとするともう亡くなっているかもしれないなと思っていたからで、ショックというようなものはあまりなく、「さもありなん」というのが正直な気持ちであった。

 それで、ネットのニュースでその死を確認したのち、11時半過ぎに寝ようとしたところ、電話が入って、NHKの文化部の記者から、原節子の死について話を聞かせてほしいとのこと。

 最初に、「亡くなられたことをどう受け止めたか」と聞かれたので、「死んだことそのものについては、かねて予測していたことなので、さほど驚かなかった」と答えた。

 ところが、「原節子をいつから追いかけはじめたのか」とか、「なぜ、原節子に関心を持ったのか」とか、「監督小津安二郎と女優原節子の関係についてどう思うか」、「原節子はなぜ小津映画のフィナーレにおいて号泣したのか」など、色々と聞かれ、それに答えていくなかで、25年に及ぶニューヨークでの生活を通して、毎晩深夜、小津の映画を見ては、一人涙していたころから、2年前、苦労して『原節子、号泣す』(集英社新書)を書き上げたときのことまで、様々に思い出されてきて、「一人の芸術家として、自分で選ばれた生き方を最後までよく全うされた。自分の存在のすべてを映画という表現の世界に傾けつくしたという意味で、おそらく彼女は、小津安二郎と並ぶ日本では稀有の、そして最後の真正の芸術家であった。その意味で、原節子の死は、最後の本物の芸術家の死を意味している。心から、お疲れ様! 本当にありがとう!と言ってあげたい……」と答えたところで、堪え切れなくなって、電話を前に声を上げて泣いてしまった。

晩秋の独酌、原節子への別れの告げ方

 それでも何とか、気持ちを取り直し、インタビューを終えて、電話を切って、寝床に入り、寝ようとしたのだが、今度は原節子の

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