2015年12月14日
拙著『原節子、号泣す』(集英社新書、2014年)の「あとがき」に記したように、私は、原節子が主演した『晩春』と『麦秋』、『東京物語』とつらなる3部作を、それぞれ最低でも200回は見ている。
正確にカウントしたわけではないが、ニューヨークで生活を始めて15年経った1988年頃に、友人から、当時入手できる小津作品のビデオ・テープをすべて送ってもらい、日常的に小津映画を鑑賞できる態勢が出来上がってから、27年余り、毎年それぞれの作品を10回ずつは見ているとして、270回になるから、200回は優にオーバーしていることになる。
それにしても、なぜそれほど繰り返し見たのか。
最大の理由は、見るごとに新しい発見と啓示があり、それが小津映画の、そして原節子の演技、とくに「号泣」の演技を通して表出されてくる小津映画の思想的本質に対する私の理解を深めてくれたこと。さらに私自身が年齢を加えていくなかで、様々な体験・経験を経て人間的に成長し、物の見方、考え方が成熟した結果、小津作品に対する理解が、年を追って深くなっていったということである。
要するに、小津の映画ワールドは一見、平易で分かりやすそうで、その実、長い年月をかけて、繰り返し見てこないと、正体というか本質が見えてこない、あるいは分かってこない、堅牢・難解で、かつ奥の深い映画的表現世界として構築されているということなのだ。
例えば、『晩春』において、原節子が、あれほど激しく再婚を決めた父親に対して憎悪と敵愾心を募らせたのは、自分を排除しようとする父親の「子殺し」とでも言うべき、人間の種族保存のための動物的本能の発動に対抗するものとして、原のなかで「父殺し」の本能的情動が作動しているからではなかったか。
つまり、表面的には日本人独特の優しい思いやりや言葉づかい、さらには上品に洗練された立ち居振る舞いに終始し、ドラスティックなことは何も起こらないように進む小津映画の深層に、ギリシャ神話以来、西洋文化に連綿と流れる「子殺し」と「親殺し」という、暗く、まがまがしい種族保存本能に根差した情動が流れていて、それが欧米人の深層心理に訴えかけ、共感と感動を生み、結果として小津作品に対する評価を高めたのではないか……。
あるいは、最近、京都市中京区七本松の大雄寺の墓地に眠る山中貞雄の墓に額(ぬか)ずいたおりに閃(ひらめ)いたことだが、小津安二郎が、1936(昭和11)年、今日残る山中貞雄の三つの作品の内の一つ『河内山宗俊』に、15歳の若さで、町娘「お浪」の役で出演した原節子を、「紀子」という役で、『晩春』に続いて、『麦秋』、『東京物語』と2作立て続けに主演させたのは、
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください