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「暴力」について改めて考えさせられた本(上)

廣瀬純『暴力階級とは何か』、栗原康『現代暴力論』

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

労働者階級から暴力階級へ

 昨夏、ぼくは「暴力」を突き付けられた。

 殴られたり蹴られたりしたわけではない。拉致監禁されたわけでもない。「暴力」について改めて考えさせられる本に連続して出会ったのである。

 一冊めは、廣瀬純『暴力階級とは何か――情勢下の政治哲学2011-2015』(航思社)

テロの現場となったカンボジア料理店(右奥)周辺は、犠牲者を追悼するため多くの人たちが集まり、静寂に包まれた2015年は世界中で「暴力」が吹き荒れた年だった=11月のパリ同時多発テロの現場となったカンボジア料理店
 近代において、資本と労働者は、階級としては対立しながらも、相互に必要としあう関係だった。

 すなわち、労働者は自らの労働力を資本に売って生きることができる一方、労働者の消費こそ資本の労働者からの「搾取」のプロセスに埋め込まれている不可欠の契機だった。

 その相補性が、失われつつある、と廣瀬は言う。

 今日、消費はどんどん減退している。購買意欲を失った労働者は、資本にとって存在意義を低下させたから、「生きさせろ」という懇願を資本が聞き入れることもなくなっているのだ。

 だが一方で、資本は自己増殖し続けなければならないから、貧者を直接的「収奪」の対象として位置づけ直し、国家はこの「収奪」を新たな再分配形態として制度化する。サブプライムローンなどは、あからさまな暴力装置である。

 こうした資本=国家の暴力に対して、労働という媒介を失った労働者は、死をも恐れない勇気を以て対抗するしかない。暴力と真正面から対峙するものは、是非もなく「暴力」と見做される。革命の担い手は、労働者階級から暴力階級へと移行したのである。

飼いならされた「奴隷」たち

 もう1冊は、栗原康『現代暴力論――「あばれる力」を取り戻す』(角川新書)

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