岡村幸宣 著
2016年01月16日
《原爆の図》は水墨画家・丸木位里(1901-1995)と油彩画家・赤松俊子(丸木俊、1912-2000)の夫婦共同制作による連作絵画である。
第1部《幽霊》が発表されたのは1950年、その後、第2部《火》・第3部《水》、翌年に第4部《虹》・第5部《少年少女》と制作され、最終的には第15部《長崎》(1982年)で完結した。
屏風四曲一双、縦1.8メートル、横7.2メートルの大画面で原爆の惨禍を描き、観る者の心を揺さぶらずにはいない作品だ。
「原爆の図展」は、原爆被害の報道が禁じられていた占領下にはじまり、サンフランシスコ講和条約発効と原爆表現の解禁をピークに全国各地に広がったが、検閲の恐れなどから主催者が記録を残さないことも多く、長い間その実態は不明のままだった。
本書は、この「空白期間」の巡回展の全容を、当時開催に関わった人びとの証言と地方紙や学生新聞をはじめとする多くの資料によって掘り起こした労作である。
『《原爆の図》全国巡回――占領下、100万人が観た!』(岡村幸宣 著 新宿書房)
《原爆の図》が文字どおり津々浦々を回るなか、その会場となったのは、画廊や美術館だけではなかった。
あるときは百貨店や劇場、またあるときは公民館や体育館、そのほかにも学校、役所、寺院、病院、駅、公園までもが、開催場所として選ばれた。
そして会場がそうであったように、そこに集まった人びともまた、多様であった。
うめくように「やりきれねえな」と語る八百屋の若い衆、黒人兵を連れて見にきた「安パンパンさん」、予想以上の盛況に「大入袋」を出した百貨店の社長、絵に手を合わせて拝む農村の老人、民謡を踊る人……。
《原爆の図》の前では、丸木夫妻やヨシダ・ヨシエが絵の解説を行ない、あるいは被爆者が自身の体験を語ることもあった。
さらに、展覧会が過密になるにつれ、当初は「模写」として制作された作品(第1部~第3部の再制作版)が頻繁に展示されることにもなったという。
調査の結果、「原爆の図展」は、1950年から53年までの4年間に、170か所以上で行なわれ、約170万人が見たことがわかった。
くわえて、53年以降は国外へも旅立ちヨーロッパを巡回、56年からの「原爆の図世界行脚」(このとき、なんと南アフリカまで行っている)を経て、1970~71年には最初の米国巡回展が実現した。
「人間の歴史上、多くの人の目に触れた絵画は数あれど、おそらく《原爆の図》ほど数多くの街に移動して展覧会が開かれた作品は、他にないだろう」と著者は言うが、まさにこれが類例のない巡回展であったことを、本書が初めて証してみせたのである。
原爆を絵画に描いたのは、丸木夫妻が最初ではなかった。しかし当時、キノコ雲や原爆ドームではなく、生身の人間の姿を描いて、その痛みを表現しえたのは、《原爆の図》だけだった。
この絵画が位里・俊子の卓越した技術と深い想像力のたまものであったことは疑いない。
しかし一方で、二人は《原爆の図》のことを、「名も知らぬ大衆が認め、大衆の手に支えられて歩き、大衆が育てた作品」として、“大衆が描かせた絵画”と呼んだ。本書を読む者は、その意味をおのずと理解するだろう。
巻末には「《原爆の図》国内巡回展の記録(1950年~1953年)」が掲載されているが、年表がこれほどの感動をもって迫ってくることもめずらしい。
原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)に学芸員として勤務し、毎日のように《原爆の図》に触れ、それを観に来る人たちに出会うことで、誰よりもこの絵画の「力」を感じている著者だからこそ、歳月の経過とともに忘れ去られていた巡回展の記録とそれに関わった人びとの記憶を丁寧にすくいあげることができたのである。
「原爆の図展のことは、ずっと心に残っていた。いつか話を聞きに来る人があらわれると思っていた……」という本書での証言者の言葉は胸を打つ。記録はそれを残そうとする者がいて、初めて存在するものであることを、あらためて教えられるようだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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