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[書評]『イエス伝』

若松英輔 著

中嶋 廣 編集者

魂の目で読め  

 若松英輔は10代の末に批評家・越知保夫の書くものに出会った。

 越知保夫は、小林秀雄や能をめぐる古典論を書きながら、ついに1冊の著書も残さず亡くなった人である。

 越知はカトリックのキリスト者だったが、若い頃ほとんどキリスト教を棄てるつもりで、左翼の活動に身を投じたことがある。民衆の悲しみの中に、イエスが生きているような気がしたからである。

 病のために潰えたが、イエスの生涯を書くことは越知の悲願であっただろう。そしてそれは、若松の悲願ともなった。

『イエス伝』(若松英輔 著 中央公論新社) 定価:本体2500円+税『イエス伝』(若松英輔 著 中央公論新社) 定価:本体2500円+税
 カトリック司祭の井上洋治は若松の師であり、越知保夫の名も井上から教えられた。井上洋治もまた、イエスの生涯を書きあげることを究極の目標としていた。

 井上は遠藤周作の親友であり、遠藤にも『イエスの生涯』(新潮文庫)というイエス伝がある。

 というようなことを、いくら遠巻きにして述べてもしかたがない。若松は、聖書を読むのに字面を追うな、魂の中にだけ顕われる「コトバ」を読め、というのだから。

 第一章の終わりに、若松とキリスト教の関係にふれたところがある。

 生まれて40日後に、若松は小さなカトリック教会で洗礼を受けた。真剣に神学校に入ろうかと思ったこともあったが、しかしあるときから自然に「教会」から遠ざかるようになった。これはそういう人が直接、聖書にぶつかっていく話だ。

 一方、私は中学・高校を地方のカトリック男子校で過ごした。6年間、一日の始まりと終わりには主禱文を読み、さらに中学3年から高校2年まで毎週、聖書研究会に参加した。そうしてギリギリのところまでいったあげく、カトリックの洗礼は受けなかった。

 これは『イエス伝』を、そういう者が読んだ記録であり、だからこそ、例えばこういう言葉に惹かれるのだ。

 「私のイエスは、『教会』には留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄り添っている」

 たしかにカトリックは教会で聖書を読み、イエスの生涯を詳細に論じるだろう。しかし彼らの論じるキリスト教には、「キリスト」はいないのではないか。奇跡をたんに現代的に解釈し、意味づけをしてみたところで、イエスの姿は顕われない、「聖書は近代の合理主義に基づいて書かれてはいない」と若松は言う。

 井筒俊彦は、『コーラン』には、「事実的位相」、「物語/伝説的位相」、「イマジナル/異界的位相」の三層があるという。

 これは聖書も同じことだ。しかしカトリックは容易に、その「イマジナル/異界的な層」を認めることができない。若松は、その第三層こそが、立場を超え衝動を著しく刺激するという。

 そしてたとえば、教会は異邦人を忌避するが、福音書の描くイエスは異邦人を呼び寄せ、またその中に入っていく。若松は、ついにはこんなことも言うのだ。

 「イエスを論じることは、宗派としてのキリスト教ばかりか、『宗教』それ自体を逸脱、解体することを志向する」

 そう思って見てみれば、たとえばニーチェは、聖書を読んでも「キリスト」には出会えなくなってしまったと述べる。またジョルジュ・ベルナノスは『月下の大墓地』を書き、ファシズムと手を結んだ教皇庁に実質的に「破門」される。『聖なるもの』を書いたオットーは、キリスト教は「ヌミノーゼ」(戦慄すべき神秘)への道筋を閉じていると言った。

 日本でも、内村鑑三のような人がいる。彼にとって教会とは、建物でもなければ組織でもない。それは「罪人」の群れだった。彼は自らを「罪人の首(かしら)」、つまり最も罪深き者とよんだのだ。

 あるいはフランス・ルネサンス研究の第一人者・渡辺一夫は、新教と旧教が文字通り血で血を洗う争いを繰り広げているとき、「それはキリストと何の関係があるのか」と問うた(これは、時代を覆う観念体系が狂気に近づいた、第二次大戦末期の日本ファシズム批判を含んでいる)。

 同時代の人では、田川建三はキリスト教の視座からでは、イエスの本当の姿は見えてこない、と考えている。

 では一切の迷い事を振り捨て、心静かに聖書を紐解けば、誰でも自然にその世界に入っていけるのだろうか。

 実はそうではない。それどころか、じつは血の滲む努力が必要となる。

 若い頃にハンセン病を発症し、長島愛生園で一生を送った近藤宏一という人がいる。もちろんハンセン病で入所した者は、本当の名前を名のらない。近藤宏一も「院内名」である。その近藤が著わした『闇を光に――ハンセン病を生きて』(みすず書房)という本がある。

 それを読んで、若松英輔はこんなふうに言う。「近藤は指を失っている。また、視力も奪われていた」。しかし「彼は諦めない。『知覚の残っている唇と、舌先で探り読むことを思いついた』」。

 近藤のこの言葉に出会って以来、若松は自分が読んだ聖書と、近藤が読んだそれとの差異を感じずにはいられない。「唇と舌で彼が読む聖書には、文字通り、血をもってしか読むことのできないコトバが秘められているのではないだろうか」。

 聖書を読む者は、文字を追う目とは別な、もう一つの目を要求されている。それは、読む者の魂だけに顕われる不可視なコトバなのである。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。