山本義隆 著
2016年02月11日
この本の柱は二つある。1960年の安保闘争から69年1月までの東大闘争の歴史と、近代日本の科学技術の研究と教育の歴史である。
その二つに分けて、この本の内容を紹介していきたいと思う。
しかしこの本を読むまで、60年安保を体験した世代だとは思わなかった。
60年に大学へ入学した山本は、6月15日の樺美智子の死に衝撃を受け、翌日からは連日国会デモに参加するようになる。
次にかかわったのが、62年の大学管理法(大管法)反対闘争である。
この闘争で山本を含む四十数名の学生に戒告(譴責)処分が下った。山本は処分撤回を求めて翌63年1~3月、安田講堂前で座り込みの抗議を続ける。
64年には理学部大学院へ進み、66年9月、理学・工学・経済学部の大学院生、助手を中心に東大ベトナム反戦会議を結成、砂川闘争、ついで王子の米軍野戦病院撤去闘争に入っていく。
67年には日本物理学会の国際会議にアメリカ陸軍極東研究開発局から資金が出ていたことが判明、山本たちはその年の学会総会で、「今後内外を問わず、一切の軍隊からの援助、協力関係を持たない」との決議を得た。
こうした異議申し立てのなかで山本は、自然科学の研究を絶対的な善とみる研究至上主義、科学の進歩を社会の進歩とみる啓蒙主義的科学観に疑問をもち、大学で行っている自らの研究の意味をも問うようになる。
そして68年1月、東大医学部の学生と青年医師連合(青医連)が医師法改正・登録医制度に反対してストライキに入るが、6月、大学側は機動隊を導入して安田講堂を占拠した医学部闘争委員会(医学連)と「全学連」医学生連絡会議(全医連)の学生たちを排除した。
これに対し山本たちは全学闘争連合(全闘連)を作り、7月2日、大学本部のある安田講堂をバリケード封鎖し、東大の権威の象徴・安田講堂の解放を目指した。
「ともかく誰でも入れる。文句なしに入れる、本部封鎖・講堂占拠に暴力的に敵対しないかぎり全部入れる。批判があっても疑問があっても入れる、中に入れて議論する、徹底的に議論する」
60年代の空気を圧縮したような表現だが、高校生の集会に、三里塚の空港建設反対同盟の農民に、日大全共闘の集会に、講堂を解放したのである。
9月になると各学部の学生大会で無期限ストが決議され、10月には山本が全共闘議長に推された。
東大全共闘の中心にいた全闘連と青医連、助手共闘のメンバーはほぼすべて60年安保の経験者だったという。
東大闘争を先導したのは20代後半の人たちで、学生運動といっても「大のおとなたちの闘い」だったわけである。
山本にとって東大闘争は、明治以降国策として推進されてきた日本の科学と技術そのもの、東京大学で行われている学問や研究そのものへの問いかけであった。
11月には加藤一郎が総長代行に就任、スト解除を提案するが各学部は拒否、69年1月の機動隊導入によって安田講堂は陥落し、この年の入試試験は中止となった。
山本は9月に逮捕され、翌年10月まで収監された。
結局、大学改革はならなかったのである。60年代の闘争は終わりを見据える目(終結後の展望といってもいい)を持たなかったのではないだろうか。
さてもう1本の柱は、近代日本の科学技術の研究・教育の歴史と東大の果たしてきた役割の問題である。
近代日本は3度理工系ブームを経験したという。
最初は明治維新直後で、肉食と並んで「窮理学」が文明開化のシンボルとなった。福沢諭吉と小幡篤次郎は『学問のすゝめ』の冒頭で、「窮理学とは天地万物の性質を見て其働を知る学問なり」と説いた。
窮理学はnatural philosophy の訳で、自然と事物を合理的に説明する学=物理学である。
かつて西洋では(自然)科学は哲学・思想とみなされ、技術は技術者や職人が経験主義的に作り出すものとして一段低くみなされていた。
蒸気機関や発電機が発明された19世紀半ばになって西洋で科学と技術が結びつき、産業の近代化を達成するのである。
明治維新後の日本は、西欧で科学技術が生み出された「まさにその絶妙なタイミングで西欧の科学と技術に遭遇した」わけである。
その明治初年以降の科学技術の研究と教育を担ったのが、帝国大学(東大)であった。
2度目は昭和10年代、満州事変から太平洋戦争に続く戦争の最中である。
理工系の学生数は大幅に増え、工・医・理学部だけの帝国大学が大阪、名古屋にでき、東大には第二工学部まで生まれた。
工学部は戦時下には軍事科学の研究と教育に密接な関連を持っていた。こうした戦前・戦中の科学技術教育が戦後日本の技術的発展につながっていった面もあるが、科学者たちの戦争責任は問われることがなかった。
3度目が60年代、安保を経てさらに高度経済成長が続く時期である。
大学の理工科系の学生数は大幅に増加し、石炭から石油へのエネルギー転換が行われ、工学部に原子工学科や電子工学科が生まれた。
そして「科学技術は、戦後一貫して絶対的なプラスの価値を持つものとして語られて」きた。
明治以来の「富国強兵・殖産興業」のスローガンが、戦後には「経済成長・国際競争」に置き換えられただけで、日本の科学技術主義とナショナリズムは一体となって今日まできたと、山本は分析する。そのため東大闘争においても、大学の研究や教育の根底的な見直しが要求されたのである。
当時のスローガン「産学協同反対」「東大解体」は、僕のような他大学の人文系の学生には正直ぴんとこなかったが、山本たちには切実な問題だったことがわかった。
保釈後、山本は研究室には戻らず、知人のコンピュータ関連の小企業に勤めたあと予備校の講師となり、科学史関連の本や物理学の教科書を執筆する一方、67年の医学部闘争から69年2月までのビラ、パンフレット、当局の文書ら5000点を収めた『東大闘争資料集』全23巻(別巻5巻)を作り、マイクロフィルム3本とともに国会図書館と大原社会問題研究所に納本した。
資料集めから始まった作業には丸々5年かかったという。
2003年に出た著書『磁力と重力の発見』全3巻(みすず書房)などは超重量級の本で、(実は読み終えていないのだが)、よくもこんな本が書けるものだと感心するばかりだ。
驚くべき文献の渉猟と粘り強い考察のもとに、古代から近代初期までの哲学者や神学者、科学・技術者らの思考がたどられている。
こんな仕事のできる人は、普通、時間にはけちなものだが、この人は自分のすべきことには時間を惜しんでいない。人としての大きさというべきだろうか。
巻末に収められた闘争仲間4人への弔辞(なんとすばらしい弔辞だろう!)にも、それは現れていると思った。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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