小山鉄郎 著
2016年02月18日
悲惨で強烈な体験をしたときほど、人はその体験をなかなか言葉にできない。当然だろう。
死に瀕したり、実際に死者を出す大きな自然災害(本書ではそれを「大変」と表現する)に遭った場合も同様のはずだ。しかしだからこそ、経験した人々の記憶に深く残り、人生を規定するほどの影響を及ぼすのかもしれない。
その体験は、直接同時代人に伝わらなくても、書物(言葉、文学)に姿を変えることで、むしろ経験した個人や時代を超え、人々の精神に浸透するのかもしれない。
「大変」に直面した精神は、同じく「大変」の渦中にある人々によってこそ受けとめられる。両者をつなぎ、時代を超えた精神のリレーを可能にするものこそが書物だ。読み終えたあと、そんな思いを新たにした。
『大変を生きる――日本の災害と文学』(小山鉄郎 著 作品社)
文芸ジャーナリストの著者らしく、ときどきのニュースと原典・古文書を往復しつつ盛り込まれる作家や名作周辺のエピソードも多様・多彩で、読後には何冊もの本を同時に読んだような満足感が残る。
「大変」に直面する精神は、「大変」の渦中にある人によって感受される。
そしてそれらが時空を超えていくさまは、たとえば本書で以下のように紹介される(「島崎藤村と関東大震災」、「鴨長明『方丈記』と堀田善衛『方丈記私記』」の章)。
『方丈記』は、鴨長明が見聞した自然災害を描いて有名だが、『方丈記』を読むことで『方丈記私記』を著わした堀田善衛の背景には、堀田自身の「大変」――昭和19年に起きた昭和東南海地震とそれが戦時報道管制により伝わらなかったことや昭和20年3月10日の東京大空襲での切実なる経験――があった。
さらに、五木寛之は、学生時代に『方丈記』を読んだものの頭に入らず、堀田『方丈記私記』の描写により初めて本当の意味で『方丈記』に目が向き(堀田との対談「方丈記再読」)、長明と同じ時代に生きた親鸞の作品化につながっていく。
田山花袋に『方丈記』についての記述を促すのは、関東大震災という花袋自身の「大変」の感触であるし(『東京震災記』)、同じく関東大震災に直面後の島崎藤村が書く『夜明け前』には、父母らが経験した濃尾地震や安政期にたび重なった大地震の記憶が遠くこだましている。
何より著者自身、東日本大震災の現場を早い段階で訪れた記者としての体験が、膨大な書物から「大変」を受けとめようとする本書執筆のきっかけになっている(あとがき)。
「大変」のさなかにある人々の姿や声に存在感を与える、小説や物語の「読み」も本書の読ませどころだが、なかでも、私自身これまで知らなかった次のエピソードには胸を打たれた。
私財を投げうって被災者を救った「稲むらの火」(かつて教科書に載った物語)のモデル・濱口儀兵衛や、八丈島の百姓・高村三右衛門、浅間山噴火の際にゼロから村を作りなおした農民たち、命まで投げ出した西村伊作の両親のエピソードである。
圧巻は、伊豆諸島南端に位置する青ヶ島が、天明5(1785)年の大噴火により無人島と化し、50年をかけて復興する話だ(時間がない人は、この章「青ヶ島のモーゼ」だけでも読んでほしい。それほど感銘を受けます)。
容赦のない現実を突きつける自然を相手に闘った人(名主の佐々木次郎太夫ら村民)と、それを書きとめ、後世に伝えようとした人たち(近藤富蔵、柳田國男、高田宏)の、ドラマを超えたドラマとしか言いようのないエピソードである。
地震、火山噴火、洪水、台風などの災害と、それらに直面した人々。これらを目撃すると、書物があることで実にさまざまな「大変」が後世に伝わる、と冒頭に記した思いとは別の方向から、人は自然とともに生きている、という厳然たる事実が迫ってくるのに気づく。
このことは著者が繰り返し本書で述べてもいる。しかしそれでも、強調したくなる感慨だ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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