2016年02月19日
小津安二郎と原節子自身の意図や思惑をはるかに超えたレベルで成し遂げられた激越、かつ根源的な「号泣」の演技、そしてそのことによって獲得された世界的普遍共同性……そのことが意味するものについて、さらにもう一つ『東京物語』を見直すことで、新たに見えてきたことは、原節子が小津監督の思惑をはるかに超えて激しく、根源的に号泣したことが、小津安二郎や原節子自身の内なる戦争の問題について、本人たちも予期せぬ形で決着を付けたのではないかということである。
知られているように、小津安二郎は、1937(昭和12)年9月10日、召集を受け、東京・竹橋の近衛歩兵第二聯隊に入隊。
そして、同年12月20日、「中央公論」12月号で山中貞雄の遺書を読み、山中が、銃弾飛び交う最前線で戦いながら、映画のことを忘れず、撮影に関するノートを書きとどめていたことを知って愕然とする。
そして小津は、山中のように映画を通して戦争に向かい合うことを避け、戦争のことを忘れよう、忘れようとしてきた自身を恥じて、その日から従軍日記を書き始める。
日記の書き出しには、山中の遺書を読んだときのことが以下のように書かれている。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください