末延芳晴(すえのぶ・よしはる) 評論家
1942年生まれ。東京大学文学部中国文学科卒業、同大学院修士課程中退。1973年から1998年までニューヨークに在住。2012年、『正岡子規、従軍す』で第24回和辻哲郎文化賞受賞。『原節子、号泣す』(集英社新書)、『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社)、『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社)など著書多数。ブログ:「子規 折々の草花写真帖」
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
小津安二郎と原節子自身の意図や思惑をはるかに超えたレベルで成し遂げられた激越、かつ根源的な「号泣」の演技、そしてそのことによって獲得された世界的普遍共同性……そのことが意味するものについて、さらにもう一つ『東京物語』を見直すことで、新たに見えてきたことは、原節子が小津監督の思惑をはるかに超えて激しく、根源的に号泣したことが、小津安二郎や原節子自身の内なる戦争の問題について、本人たちも予期せぬ形で決着を付けたのではないかということである。
知られているように、小津安二郎は、1937(昭和12)年9月10日、召集を受け、東京・竹橋の近衛歩兵第二聯隊に入隊。
同月24日に大阪港を出航、27日に上海に上陸し、上海派遣松井本部隊森田部隊に所属し、上海、南京、関口と中国各地を転戦するなか、翌38年9月17日、山中貞雄が、河南省東部、開封の野戦病院で戦病死したことを知り、数日間無言をつらぬく。
そして、同年12月20日、「中央公論」12月号で山中貞雄の遺書を読み、山中が、銃弾飛び交う最前線で戦いながら、映画のことを忘れず、撮影に関するノートを書きとどめていたことを知って愕然とする。
そして小津は、山中のように映画を通して戦争に向かい合うことを避け、戦争のことを忘れよう、忘れようとしてきた自身を恥じて、その日から従軍日記を書き始める。
日記の書き出しには、山中の遺書を読んだときのことが以下のように書かれている。
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