リアルさとは“嘘臭くなさ”である
2016年02月24日
物語や主題の切実さ/リアルさに見合って、『ハッピーアワー』の登場人物、とりわけ4人の女性演者らの演技は、ほとんど演技臭を感じさせず、しばしばそれが演技とは思えないほどナチュラルに見える。
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濱口は本作の撮影前に演者全員にホン読み(脚本読み)を課したが、そのさい彼は、ニュアンスを込めずに、抑揚を排して脚本を読み上げるよう――つまり棒読みするよう――指示したという。
この点はきわめて重要だが、こうした手法は、短編ドキュメンタリー『ジャン・ルノワールの演技指導』に収められた「イタリア式本読み」を手本としたもので、その要点は、早口で「電話帳を読み上げるように」、感情表現を排して読むことだった。
じっさい、『ハッピーアワー』の撮影現場での演者らは、撮影前にかなりの時間を費やして、さまざまな速度でホン読みを繰り返しつつ、セリフを修正したり間(ま)の取り方を指示されたりしながらセリフを覚えたのだが、そうした過酷なレッスンでは、紋切り型の感情表現を避けるべく、前述のように濱口は、セリフ回しから抑揚やニュアンスを抜くよう演者らを指導したと語っている。
なお、これも先に述べたが、本作では即興によるセリフは極力排された。
そして濱口は、撮影開始後は演者らに、ホン読みのときと違ってセリフ回しからニュアンスや抑揚を排することは求めなかったというが、じつに巧みな演技設計だ(当然、リハーサル時のニュートラルなセリフ回しは、撮影中の演者らの語調に影響を与えたにちがいない)。
とにかく、大半の映画やテレビドラマでおなじみの、アクセントをつけすぎた(わざとらしく嘘臭い)大芝居にうんざりしている身には、『ハッピーアワー』の演者らの言動のリアルさ=嘘臭くなさは、なんとも得難いものに思われた。
――そう、『ハッピーアワー』のリアルさ/切実さ/迫真性とは、つまり、<嘘臭くなさ>なのである(繰り返すが、この嘘臭くなさは、演者らの「自然体」によってではなく、演者らの個性と濱口の緻密な演出との相乗作用によってもたらされたものだ。ある意味で、周到かつ大胆に嘘をつくことで、この<嘘臭くなさ>は獲得できる。ゆえに多くの映画は、嘘のつき方が徹底していない、といえるかもしれない)。
もうひとつ、『ハッピーアワー』のリアルさという点で特記すべきは
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