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[書評]『ひとりの記憶』

橋口譲二 著

奥 武則 法政大学教授

無告の民の言葉を伝える

 「人生の選択」なんて言うけれど、人は本当に生きる道を自分で選ぶことができるのだろうか。ぼんやりとそんなことを思いながら、本書のページを閉じた。

『ひとりの記憶――海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』(橋口譲二 著 文藝春秋) 定価:本体1700円+税『ひとりの記憶――海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』(橋口譲二 著 文藝春秋) 定価:本体1700円+税
 1945年に悲惨な結末を迎えた戦争とその前の時代、「帝国日本」はいまの日本よりずっと広かった。

 植民地だった台湾と朝鮮半島はもとより、委任統治領だった南洋諸島、そして「満州国」と呼ばれた中国東北地方。そこには多くの日本人が生活していた。

 移民というかたちで中南米にわたった人々も少なくなかった。

 生活者だけではない。戦線の拡大とともに中国、東南アジア各地には膨大な兵士という名の日本人が送り込まれた。

 敗戦とともに、こうした人々は、どうしたのか。

 大半は本土に引き揚げた(「引揚げ者」という言葉は、日常語としてはたぶんもう死語だろう。1947年生まれの私は、旧陸軍の兵舎に住む引揚げ者家族の子どもたちがかなりの数、同じ小学校に通って来ていたことを覚えている)。

 そうした引揚げ者たちの苦難を綴った記録は少なくない。それらは、戦争というものが個々の人間、個々の家族にもたらす災厄をさまざまなかたちで、私たちに教えてくれる。

 だが、引き揚げなかった人たちもいたのだ。そして、その少なくない部分は、引き揚げることができなかった人たちだった。

 本書は、こうした残った人々を各地に訪ね、ていねいにインタビューして紡ぎ出した記録である。

 一貫して「ひとりひとりの人間の存在」を一枚の写真に写しだすことにこだわってきた写真家は、本書では「ひとりの記憶」を活字に定着させる仕事に取り組んだ(それぞれ一枚の人物写真が、決して添え物としてではなく、挿入されているのだが)。

 1995年から始まった取材は2000年まで続き、著者は86人の日本人と会ったという。そのうち10人が本書の登場人物である。

 「こんな人生もあったのか」という言葉を何度も内心でつぶやきつつ、読み進んだ。

 医療専門家として徴用され、スマトラ島でインドネシア独立軍の病院長になり、現地の医療改善にも大きな業績を残した人がいれば、インドネシアのバンドンで敗戦を迎えた後、インドネシア独立戦争に兵士として参加した人もいる。

 日本統治下の朝鮮で韓国人と結婚し、戦後も韓国に残った女性がいれば、看護師の勉強に満州にわたり、戦後、中国共産党の八路軍の野戦病院で知り合ったドイツ人医師と結婚した女性もいる。

 「ひとりの記憶」のひとりひとりを紹介することは、とてもできない。ひとりだけ、少し詳しく記しておく。

 北海道夕張郡生まれの佐藤弘さん。取材当時、71歳。

 12歳のとき、一家で日本領土だった南樺太にわたる。敗戦後、交通事故に伴う冤罪で4年の刑を受け、シベリアの収容所に送られた。刑期を終えた後、道路工事の仕事に従事し、ロシア人女性と結婚し、子どもも得た。

 1962年、シベリアに残留する日本人の日本への帰国の話が具体化した。佐藤さんは36歳だった。佐藤さんは身体の弱い妻と子どものことを考えて、シベリアに残ることにした。

 「今考えれば、ああ、あの時に直ぐに帰ればよかったな思うんだども、その時はそういう考えはなかったもの」

 佐藤さんは、こんなふうに語ったという。

 「ひとりの記憶」のひとりひとりの中には、異なるかたちであれ、それぞれの「あの時」があったように思う。

 「どうして戻らなかったのですか」「日本にいる家族のことは考えなかったのですか」――著者はこうした問いかけもしている。しかし、納得できない場合、さらに追究しようとはしていない。だから、しばしば著者は「分からない」とつぶやく。たぶん本人も分からないのだ。

 最後に「生き抜いた人たち」というタイトルで、10人以外の20人の写真が収録されている。「氏名・生年・出身地不詳」と書かれた女性が2人。韓国・海南郡海南邑で撮影された女性は「無国籍で韓国語も日本語も話せない(村の人は日本人だという)」と付記されている。

 その静かな語り口に不釣り合いであることを承知で言えば、著者は本書によって無告の民の言葉を私たちに伝えてくれた。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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