森健 著
2016年03月31日
小倉昌男に対する私の理解は、まずこんな具合だ。
「宅急便」という、誰もが想像を超えたシステムを編み出し、その実現のために、運輸省が規制でがんじがらめにしている路線免許を裁判をしてまで取得する。運輸大臣を行政訴訟に訴えてまで成果を勝ち取る。
しかし東大は出たもののすぐに結核になり、4年半、寝たきりの生活を送ることになる。
なるほど東大を出て、しかもそのあと結核で生死の境をさまよったのであれば、度胸はすわっていよう。
「霞が関の官僚は全員、首にしてかまわない」。八重洲ブックセンターの講演会で、私がこのセリフをじかに聞いたのも、むべなるかなである。
病床にいる間に、小倉はキリスト教に帰依している。
これはヤマト運輸の会長をしたのち、莫大な私財を投入してヤマト福祉財団を設立し、また障害者が働けるよう「スワンベーカリー」を立ち上げる、という行為の根柢にある思想だろう。
以上が小倉に対する私の理解であり、世間もだいたい似たようなものだろう。
『小倉昌男 祈りと経営――ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』(森健 著 小学館)
ところが著者は、小倉の足跡から三つの小さな疑問を感じ取る。
なぜ彼は運送業から、私財を投じて福祉の世界に入ったのか。なぜ彼には、偉大な経営者という外向きの顔と、家では影の薄い優しい人間という、二つの顔が生まれたのか。そして最後に、なぜアメリカに渡って死んだのか。
小倉は、初めは個人で散発的に寄付をし、つぎにヤマトの200万株(時価24億円)を投じて福祉財団を設立するが、それは何のためだったのか。
阪神淡路大震災が起きてはじめて、いちばん弱い障害者、なかでも精神障害者の就労支援に活動の的を絞る。初めは目的がぼんやりしていたのが、徐々に障害者支援、それも精神障害者に的を絞ることになったのはなぜなのか。
著者は綿密な取材を重ね、その裏に長女・真理の病の秘密があることを探り出す。妻の玲子と真理には、20年を超える葛藤があることを知る。その果てに玲子は自殺し、真理は責め苦を負って閉鎖病棟に収容される。
真理は境界性パーソナリティ障害だった。その診断がついたのは1994年、玲子の死から3年後のこと、“キレる”ようになってから実に20年以上もたっていた。
真理はこのころから薬を飲み始める。2005年、がんを押してアメリカに渡った小倉は、つかの間の安らぎを得たように、先にアメリカに移住していた真理のもとで死去する。真理は、2006年には自分に合った薬が出て、以後安定した生活が送れるようになる。
結局、小倉は、真理が徐々に安定してゆくのと軌を一にするように、精神障害者の就労支援に的を絞っていく。その間、2001年には残りの100万株、時価22億円を財団に寄付している。
著者は小さな疑問を手放さず、妻と娘に対する父親の深い思いを描いてゆく。しかしそれは、残された家族にとっては、ほんとうは知られたくないことではなかったか。ここには書かれていないけれど、どういう取材方法を用いたら、そんなことを明るみに出すことが可能になるのか。
宅急便で最も忙しいときに、家の中は修羅場だった。その果てに妻は自殺し、長女は閉鎖病棟に収容される。
これは長女の病が原因であり、誰に責任を問うべきことでもない。あえて言えばその「家庭の悲劇」を明るみに出すこと、これを関係者に決断させたことが、著者の最も大きな手柄だと思う。
しかし、と本書を読み終えて、なお疑問が残る。著者の探求は、長女の境界性パーソナリティ障害を起点に、小倉の福祉行為を読み解いていったものだ。だが、小倉を福祉に駆りたてたものは、本当にそれだけか。
確かに著者の言うとおり、最初は散発的な寄付行為であり、ヤマト福祉財団を作ってからも、これといってやることは決まっていない。それが長女の歩みと一緒に、福祉行為の焦点が定まってきている。それはそうだ。
しかし、そもそもヤマト労組は1987年には交通遺児育英会に寄付をはじめており、寄付行為は全社挙げてやっていることだ。
小倉がヤマト福祉財団を作ったときも、1年分のボーナスから1000円を寄付するというささやかなものだが、社員の7割が参加している。
また妻の玲子は60を超えたら、マザー・テレサのようにボランティアをやりたいと言っていた。小倉は妻の自殺を機に、募金にのめり込んでいったとも言えるのである。
けれども、どこの家も一皮めくってみれば、それぞれに悩みはあるはずだ。同じように悩むところから始まり、それを誠実に突きつめ、その結果、誰にもまねのできない地平に出た。小倉昌男とはそういう人ではなかったか。
この本の素晴らしいところは、そういう見方も可能なように、矛盾する材料を書きこんであることだ。だからこんどは、あなたが読んで、ぜひあなたの見方を聞かせてほしい。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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