「外圧」で生まれた国歌を変えるという「自由闊達な」議論があっていい
2016年04月04日
「君が代」を聴くたびに思い浮かべるのは、わが母校、伊那北高校の応援歌だ。
なにせ前身が旧制中学だったせいもあって、わずかにバンカラな校風が残っていて、応援歌が7つもあった。その内のひとつ、「恨みをのんで」というのがそれで、こんなふうな歌詞だった。
1、恨みをのんで地に潜む この断腸の二年(ふたとせ)を
いま勝たずんば何時の日か 如何で覇権を握るべき
2、噫(ああ)陰惨の二星霜 男児が涙あだならば
友よ自由を如何にせん 栄えある歴史如何にせん
3、地を吹き払(はろ)う紫は 我が伊那高の旗印
天翔(あまかけ)りゆく熱球に 我が伊那高の意気みずや
他の応援歌が勇ましかったりテンポがよかったりするなか、この歌は異彩を放っていた。
歌うのはもう負けが火を見るよりも明らかな時か、もしくは完敗してしまった時で、スローテンポで陰鬱なメロディーのうちに暗い情念が籠ってもいて、そのいじましさが個人的には嫌いではなかった。もちろん戦前は「我が伊那高」という部分が「我が伊那中」と変わるだけで、ずっと歌い継がれてきたようだ。
『「君が代」の起源』(藤田友治+歴史・哲学研究所編、明石書店刊)。もう10年も前の本だが、〈「君が代」の本歌は挽歌だった〉という副題が示す通り、「君が代」の起源を訪ねながら、それがもともと「寿ぎ歌」ではなく、死者を悼み、弔う歌として謳われていたというのだ。
またその起源を訪ねる過程で、
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