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「挽歌」としての「君が代」を考える

「外圧」で生まれた国歌を変えるという「自由闊達な」議論があっていい

大槻慎二 編集者、田畑書店社主

「君が代」の起源

 「君が代」を聴くたびに思い浮かべるのは、わが母校、伊那北高校の応援歌だ。

 なにせ前身が旧制中学だったせいもあって、わずかにバンカラな校風が残っていて、応援歌が7つもあった。その内のひとつ、「恨みをのんで」というのがそれで、こんなふうな歌詞だった。

1、恨みをのんで地に潜む この断腸の二年(ふたとせ)を
  いま勝たずんば何時の日か 如何で覇権を握るべき

2、噫(ああ)陰惨の二星霜 男児が涙あだならば
  友よ自由を如何にせん 栄えある歴史如何にせん

3、地を吹き払(はろ)う紫は 我が伊那高の旗印
  天翔(あまかけ)りゆく熱球に 我が伊那高の意気みずや

 他の応援歌が勇ましかったりテンポがよかったりするなか、この歌は異彩を放っていた。

 歌うのはもう負けが火を見るよりも明らかな時か、もしくは完敗してしまった時で、スローテンポで陰鬱なメロディーのうちに暗い情念が籠ってもいて、そのいじましさが個人的には嫌いではなかった。もちろん戦前は「我が伊那高」という部分が「我が伊那中」と変わるだけで、ずっと歌い継がれてきたようだ。

区立小学校の入学式で、起立して君が代を斉唱する教職員ら=6日、東京都江東区拡大学校の入学式、卒業式では、起立しての君が代斉唱が当たり前のようにおこなわれるようになった
 もちろん「君が代」の歌詞や旋律に重なるところがあるわけではないが、どこかもの悲しくて陰々とした色調は似ていて、それが厳かさとどう関係するのか、と考えていた矢先、面白い論考に触れた。

 『「君が代」の起源』(藤田友治+歴史・哲学研究所編、明石書店刊)。もう10年も前の本だが、〈「君が代」の本歌は挽歌だった〉という副題が示す通り、「君が代」の起源を訪ねながら、それがもともと「寿ぎ歌」ではなく、死者を悼み、弔う歌として謳われていたというのだ。

 またその起源を訪ねる過程で、

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筆者

大槻慎二

大槻慎二(おおつき・しんじ) 編集者、田畑書店社主

1961年、長野県生まれ。名古屋大学文学部仏文科卒。福武書店(現ベネッセコーポレーション)で文芸雑誌「海燕」や文芸書の編集に携わった後、朝日新聞社に入社。出版局(のち朝日新聞出版)にて、「一冊の本」、「小説トリッパー」、朝日文庫の編集長を務める。2011年に退社し、現在、田畑書店社主。大阪芸術大学、奈良大学で、出版・編集と創作の講座を持つ。フリーで書籍の企画・編集も手がける。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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