「消極的な肯定」を示す姿勢こそリアリスティック
2016年04月07日
2月17日、岐阜大学は、国歌「君が代」を入学式・卒業式で斉唱しない方針を表明、これに対して、馳浩文部科学相が「運営交付金が投入されているのに恥ずかしい」と批判した。
まず、馳大臣の「恥ずかしい」という言葉こそが恥ずかしい。「国に金を出して貰っているのだから、国の言うことは無条件で聞け」と言わんばかりである。
馳大臣はおそらく、「大学自治」の意味が分からないだろうし、権力に盲従せず、権力の暴走にストップをかけることこそ大学の存在理由だと言われても、理解できないであろう。
三島憲一「『君が代』とは別の『第二の国歌』があれば理想だ――野球観戦に耳栓は持って行きたくない(WEBRONZA)
松谷創一郎「『君が代』」をめぐって広島の県立高校で起きたこと――『義務化』して誰が幸せになったのか?(WEBRONZA)
大槻慎二「『挽歌』」としての『君が代』を考える――『外圧』で生まれた国歌を変えるという『自由闊達な』議論があっていい(WEBRONZA)
1999年8月に成立した「国旗国歌法」は、「君が代」を(法的にはこの時初めて)「国歌」と定めただけであり、公式行事で歌うことを国民に強いてはいない。
小中高校で「君が代」が斉唱されるのは、「学習指導要領」に書かれているからに過ぎない。
大学には、「学習指導要領」は無い。
室井尚が言うように、大学とは“それまで学習指導要領等によって文科省が決めた科目と単元を、ひたすら印刷機でプレスされるように頭の中に刷り込まれ、つめ込まれてきた「生徒」たちが、初めて自分の意志で世界を解釈し、生き方を模索し、学ぶことを選ぶ場所”なのだ。
そのことが、昨年(2015年)6月になされた下村博文文部科学大臣(当時)の、国立大学学長に対する式での国歌斉唱の要請を、岐阜大学森脇久隆学長が拒否した所以であろう。
これまでも、「君が代」斉唱は、学校の卒業式において紛糾の火種であった。
1970年3月、学級担任の「まわれ右!」の号令で1クラスの生徒全員がまわれ右して歌わなかった「まわれ右!」事件。伴奏担当教諭がジャズアレンジの「君が代」を演奏して物議を醸した事件。91年には、校長が式次第になかった「君が代」をアカペラで独唱するという珍事件も発生した。
そもそも「国旗国歌法」が、99年2月、卒業式での「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を求め広島県教委とそれに反対する教員・生徒の板挟みに苦しみ校長が自殺した事件がきっかけとなった法案であった。
これまで学校が「事件」の現場になってきたのは、
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