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[6]山中貞雄の無念の思いを晴らすために

末延芳晴 評論家

「内なる戦争」に決着をつけないまま

 佐藤忠男監修の『永遠のマドンナ 原節子のすべて』(出版協同社、1986年)に掲載されている「原節子主演全作品リスト」によると、原節子は、1936(昭和11)年に製作公開された日独合作フィルム『新しき土』に主演したのを皮切りに、『上海陸戦隊』(熊谷久虎、1939年)、『指導物語』(熊谷久虎、1941年)、『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎、1942年)、『望楼の決死隊』(今井正、1943年)、『決戦の大空へ』(渡辺邦男、1943年)など、少なからぬ国策映画に出演し、戦意高揚に一役買うことで、小津とは違った形で戦争に加担していたことが分かる。

『晩春『晩春』の原節子と笠智衆(右)
 だが、原節子もまた、やむを得ない事情によるものとはいえ、小津と同じように、結果として加害者として戦争にコミットしてしまったことに対する自責、あるいは贖罪の意識については、一言も語ろうとしていない。

 そして、戦後目覚ましく復活を遂げた日本の映画界にあって、1946(昭和21)年製作・公開の黒澤明の『わが青春に悔なし』では、戦時中はスパイ容疑で逮捕された夫をかばうため獄中で黙秘を通し、戦後はにわかに巻き起こった民主主義化の波に乗って、農村文化工作隊の一員として活動する目覚めた女性を、さらに1949(昭和24)年公開の今井正監督の『青い山脈』では、学園の民主化に立ち上がる教師を演じるなど、時代の全体的共同性(社会主義革命に対する共鳴や民主主義的思潮・運動)に同調することで、一気に国民的大スター女優に駆け上がり、『青い山脈』の大ヒットでピークを迎えたところで、小津映画に初出演することとなる。

 そうした意味で、小津安二郎と原節子は、共に内なる戦争(あるいは戦争責任)に決着をつけないまま

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