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「帝国の慰安婦」が問いかけるもの 下

加害者としての日本の帝国主義が日本社会に共有される認識を

中沢けい 小説家、法政大学文学部日本文学科教授

 夏目漱石がロンドン留学を命じられたのは1900年(明治33年)のことだ。翌年1月にロンドンに到着早々の漱石はビクトリア女王の葬列をロンドンの群衆に混じって見送っている。63年と7カ月の長きに渡ってイギリスに君臨したこの女王の像は現在でもバッキンガム宮殿の入り口で大勢の観光客を集めている。ビクトリア女王在位時代に大英帝国の領土は10倍に増えたと言う。世界各地を植民地もしくは半植民地化した大英帝国の繁栄を象徴する女王の葬列を、ロンドン到着早々の漱石は見送ったことになる。日本が大韓帝国を併合し、朝鮮半島を植民地としたのは、ビクトリア女王の死から9年後の1910年のことだ。19世紀の帝国主義の時代が終わりを告げる第1次世界大戦勃発の4年前になる。ビクトリア女王の葬列に並んだ欧州の王侯たちが植民地を巻き込んで争った最初の戦争だ。日本は帝国主義の時代が終わろうとする頃に植民地経営に乗り出したわけだ。

帝国主義に関する日本の世論形成は成熟していない

元慰安婦会見拡大慰安婦問題の日韓合意について記者会見する元慰安婦ら=2月27日、韓国京畿道広州市のナヌムの家
 韓国の作家やジャーナリストから「帝国主義についてどう考えるか 」「植民地を作ったことについてどう考えるか」という質問を受けた日本の文学者が「戦争はよくない」と答える場面に何度か出会っている。韓国側はあくまで「帝国主義」「植民地主義」についての現在の考えを問いただしているにもかかわらず日本側は「戦争」について答えてしまうという食い違いは、そのまま日本国内の一般的な世論を反映している。

 被害を意識的に語りついできた戦争は、日本社会に共通の理解を生み出してきたが、戦争に至る帝国主義、植民地主義について言えば、明治の世の輝かしい日本のイメージが語られることのほうが多い。大日本帝国の輝かしき頃として語られる植民地主義、帝国主義は「遅れてきた帝国主義者」の側面をまったくそぎ落としてしまう。日中戦争から太平洋戦争に至る戦争が植民地主義の破たんであったことからも目をそらせてしまう。帝国主義、植民地主義に関する日本国内の一般的な世論形成はまだ十分には成熟していない。

 「帝国の慰安婦」の著者の朴裕河氏が刑事で起訴された名誉毀損事件の公判が、この1月から始まった。朴裕河氏はこの裁判で、「陪審員」がつく「国民参与裁判」を申請した。韓国の司法では一般の国民が「陪審員」として参加する裁判形式を選ぶことができる。

朴裕河氏拡大朴裕河氏
 韓国人として自国に対する厳しい見方にたつ「帝国の慰安婦」だが、植民地差別と女性差別の両方の側面から従軍慰安婦問題を考えるべきだという指摘は、日本のとってたいへん厳しいものであることは前回、述べたとおりだ。日本社会の世論形成が未成熟な部分を突いている。また、従軍慰安婦問題を過度に単純化したイメージに収れんさせるべきではないというこの本の主張は、慰安婦問題の存在そのものを認めようとしない右派の主張と混同される場合があることも前回述べた。SNSなどで断片化した情報では、右派の歴史修正主義者に対する批判と見間違えるような言葉が流れてくることも前回、指摘した。昨年、12月28日にあまりにも唐突な慰安婦問題妥結が日韓両政府によって発表されたことも、朴裕河氏への非難に拍車をかけている。朴裕河氏の著書は右派に利用されているという声も聞く。右派を利するための本だとの単純化が、そこでは起きている。

「春婦伝」で描かれた「同志的関係」は憐憫の情の別名

 とりわけ、田村泰次郎の小説「春婦伝」から日本軍兵士と慰安所の女性の間に「同志的関係」があったとする記述は大きな非難の的となり、慰安婦被害者の名誉を毀損するものだとされている。兵士と慰安婦の間に「同志的関係」があるという主張が、被害と加害の関係を無化してしまうものであるかのように受け止められている。虚構の作品をもって慰安婦問題の解決のヒントがあるとした点にも非難は集中している。

 しかし、ここで田村泰次郎の作品をもとに語られていることは、社会制度の裏側で、個人がひっそりと自分自身の精神を救うための情操が文学的な抒情を生み出している事象である。帝国主義国家の支配の下での被害と加害の関係を崩すようなものではない。死刑囚と看守の間にも人間的な友愛が目覚めることがある。それと同じことが戦場で起きていたが虚構の作品をもとに論じられているのだ。人間の感情には、自分自身の救うための心の働きが隠されている。この心の働きは根源的なものだ。虚構をもってしか描きえない心の働きである。文学作品は、 ・・・ログインして読む
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筆者

中沢けい

中沢けい(なかざわ・けい) 小説家、法政大学文学部日本文学科教授

1959年神奈川県横浜市生まれ。明治大学政治経済学部政治学科卒業。1978年「海を感じる時」で第21回群像新人賞を受賞。1985年「水平線上にて」で第7回野間文芸新人賞を受賞。代表作に「女ともだち」「楽隊のうさぎ」などがある。近著は「麹町二婆二娘孫一人」(新潮社刊)、対談集「アンチ・ヘイトダイアローグ」(人文書院)など。2006年より法政大学文学部日本文学科教授。文芸創作を担当。

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