デヴィッド・ハーヴェイ 著
2016年05月18日
なぜ『資本論』の第2巻・第3巻なのかと問われても返答に窮する。著者が第1巻について解説した『〈資本論〉入門』の翻訳(作品社)はすでに2011年に発売され、版を重ねている。本書はその続編である。もちろん、最初の本も読むべきだろう。
『〈資本論〉第2巻・第3巻入門』(デヴィッド・ハーヴェイ 著 森田成也、中村良孝 訳 作品社)
いまになって、『資本論』を隅から隅まで読みとおすのは、想像しただけでも荷が重い。そこで、本書はぼくのように『資本論』を全部読みとおせなかった人のための助け船だといってもよい。
じつは『資本論』は未完の書である。マルクスが生前出版したのは『資本論』第1巻にとどまる。第2巻・第3巻は、マルクスの死後、おもにエンゲルスがマルクスの残したノートを強引にまとめるかたちで上梓された。
だから第2巻・第3巻は雑然としている。マルクスがめざしている方向がなかなかつかめず、第1巻とちがって、記述も精彩を欠く。要するに面白くないのだ。
裏返していえば、第2巻・第3巻を読むのは、相当の忍耐と努力を必要とする。途中で投げだしてしまうのも無理はないのかもしれない。
だが、『資本論』は第1巻だけではだめなのだ。第1巻で取りあげられたのは、生産過程において商品がいかにつくられるかという問題であり、そこでは労働力商品によって剰余価値が形成される秘密が解き明かされていた。
しかし、商品は市場で売れなければ、価値はないし、いうまでもなく剰余価値も実現しない。マルクスはもちろん、そのことに気づいていた。
資本は「生産と実現との統一」としてのみ理解できる、とマルクス自身が明言している。資本のほんとうの困難は、流通過程での商品価値の実現にある。それが実現されてこそ、剰余価値はようやく利潤へと転化するのである。
マルクスは、スミスやリカードなどの古典派経済学を徹底的に批判・吸収することによって、資本の一般理論をつくりあげようとしていた。その研究はついに完成することがなかったけれど、かれの苦闘の跡は、膨大なノートとなって残されていた。
いまはかつてのようにマルクスを金科玉条として持ちあげる必要もない。社会主義体制が崩壊したあとは、マルクスをかえって自己流に読み解くことができるようになった。資本主義を礼賛する現代経済学の風潮に疑問をいだく人にとっては、マルクスの社会批判はむしろ新鮮にさえ映る。
本書の特色は、経済格差や悪質な搾取、都市の荒廃、バブル崩壊、リーマン・ショック、グローバリズム、IT革命、新自由主義といった現代的課題にも触れながら、『資本論』を読もうとしているところにある。マルクスはけっして死んではいない。それどころか、現代を読み解くひとつの鍵を与えてくれる。
だが、本書の真骨頂は、資本の一般理論を構築しようとしたマルクスの意図を踏まえて、『資本論』第2巻と第3巻を大胆に組み替え、それをいわば『資本論』第2部として再構築しようとした点にあるのかもしれない。
そこから浮かび上がるのは、じゅうぶん現代経済学とも拮抗できる、緻密で、しかも大きなスケールをもつマルクス経済学の全貌である。
ごく簡単にいってしまえば、『資本論』の「第2部」が扱っているのは、資本の流通過程と蓄積(成長)過程である。第1巻の資本の生産過程と合わせれば、これによって、いわば純粋資本主義を想定した資本の一般理論が完成する。つまり、マルクスのいう「生産と実現の統一」がなされる。
マルクスは資本を生産手段と規定するような安直な発想はとらなかった。資本はむしろ経済権力なのだ。資本は貨幣や生産力や商品に姿を変えながら、生産過程と流通過程をコントロールしつつ、元の貨幣へと環流し、みずからを拡大していこうとする力にほかならない。
前にのべたように、生産過程で剰余価値をつくりだす資本にとって、最大の難所が流通過程であることに、マルクスは気づいていた。市場で商品が売れなければ、資本家にとっては元も子もない。しかも、市場に商品が滞ってしまえば、資金は回収されず、次の生産に支障をきたしてしまうだろう。
労働者の権利を主張することが『資本論』の執筆動機だったのだから、ほんとうなら資本家の事情など無視してもよかったはずだ。だが、マルクスはそうしなかった。『資本論』の第2巻・第3巻では、当の資本家以上に真剣に、流通過程における商品価値の実現について、しつこいくらいに検討を重ねている。
そこから生まれた結論は、産業資本は産業資本だけでは、流通過程の困難を乗り越えられないということである。
産業資本主義以前にも、高利貸や商人はいた。しかし、産業資本主義時代にはいると、高利貸は金融資本家、商人は商業資本家に姿を変えて、産業資本を中心に金融資本、商業資本がそれを支え、剰余価値を分かちあう総資本体制が築かれていく。
もうひとつ、資本の大きな課題は、回転期間を早めることだった。3つの資本の分離は、資本の回転をスムーズにする。しかし、流通過程をスピードアップするには、とりわけ運輸交通を改善しなければならなかった。こうして、運輸交通が資本の効率化と空間の圧縮、市場の拡大をもたらす推進力になっていく。
だが、流通過程における商品価値の実現には根源的な困難が存在する。一般市場においては、資本家も労働者もともに商品の買い手として登場するが、商品全体の需要はそう簡単に満たせない。いわゆる有効需要の不足が生じるのだ。
それを埋めるためには、資本家が剰余価値のすべてを消費するか、あるいは剰余価値の一部を投資に回さないかぎり資本は循環しない。資本は回転しつづけなければ倒れてしまうコマのようにやっかいな存在なのだ。
マルクスは安直な資本主義崩壊論の立場をとっていない。むしろ、社会的総資本の循環モデルとしての再生産表式を編みだし、資本主義が存続する条件を探ろうとしている。
再生産表式において、マルクスは単純再生産と拡大再生産を想定し、拡大再生産を資本主義の一般モデルとして抽出した。マルクスの再生産表式からは、のちにレオンチェフの投入産出分析やマクロ経済の成長モデルが誕生する。
マルクスは資本主義を不均衡なシステムだと考えていた。それは好況と恐慌をくり返しながら成長していく。恐慌は資本主義の終末を意味しない。下降スパイラルはどこかで逆転しはじめる。金融資本はマッチポンプとして作用する。それはバブルを加速し、恐慌をもたらすとともに、恐慌から脱する力ともなるのだ。
マルクスは資本主義が永遠につづくとみていたわけではない。終点のないジェットコースターのような、そのシステムはどこかで終わらなければいけないと考えていた。
マルクスにおいては、その代案が共産主義だった。だが、自身もはっきりとした答えを見つけていたわけではなかったのである。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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