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[書評]『憲法の涙』

井上達夫 著

奥 武則 法政大学教授

「護憲派粉砕」の舌鋒鋭く  

 本書について、「読みましたか?」と尋ねると、その人は首を横に振った。本書が原理主義的護憲派と呼ぶ憲法学者の一人である。

 「そんな本、読みませんよ」といった表情がうかがえ、本書の著者に対する彼の、ある種の軽侮の念を感じた。

『憲法の涙——リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 2』(井上達夫 著 毎日新聞出版) 定価:本体1350円+税『憲法の涙——リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 2』(井上達夫 著 毎日新聞出版) 定価:本体1350円+税
 まあ、「感じた」のは私の邪推かもしれない。

 だが、次の文章は、どうだろうか。今年(2016年)の憲法記念日(5月3日)、朝日新聞朝刊に掲載された石川健治東京大学教授(憲法学)の寄稿の一節である。

 《改憲を唱える人たちは、憲法を軽視するスタイルが身についている。加えて、本来まともだったはずの論者からも、いかにも「軽い」改憲発言が繰り出される傾向も目立つ。実際には全く論点にもなっていない、9条削除論を提唱してかきまわしたりするのは、その一例である》

 ここで《本来まともだったはずの論者》とされているのが本書の著者であることは容易に想像がつく。後に《9条削除論を提唱してかきまわしたり……》と書かれているからだ。

 名前を出さないまま、《本来まともだったはずの論者》とか《かきまわしたり……》と書いている。これは軽侮以外の何ものでもないだろう。

 念のために書いておくが、本書の著者は、むかしも今もまともであり、彼の「9条削除論」は、憲法についての法哲学的思考を基礎にした従来からの主張であり、《「軽い」改憲発言》ではまったくない。

 私が著者の「9条削除論」に初めて接したのは、朝日新聞社が出していた『論座』(もちろん、紙媒体)だったと記憶していた(本書によると、2005年5月号)。主張そのものは4半世紀前以上から明らかにしているという。

 前口上が長くなってしまった。著者の主張を聞こう。

 護憲派には二つある。一つは、自衛隊と日米安保条約は違憲とする原理主義的護憲派。もう一つは、自衛隊は違憲ではないとする修正主義的護憲派。

 憲法9条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又はその行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」だけではなく、第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明確に記している。

 したがって、かつての内閣法制局の見解と実質的に同じである修正主義派はおかしい。原理主義派の理解の方が正しい。だが、原理主義派がその主張を貫くなら、違憲状態を放置していて、護憲を主張するという矛盾に直面する。

 そこに目をつむって、護憲を叫ぶのは、それこそ立憲主義への冒瀆ではないか。

 「憲法9条を守れ」と説く人々は、憲法9条があることで、戦後日本は戦争に加担せず、平和を守ってくることができたという。本当か?

 日本は核を含め世界最大の軍事力を擁する米国との間に安全保障条約を結んでいる。米軍基地は沖縄をはじめ、全国各地にたくさんある。

 その米国は朝鮮戦争を戦い、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と戦争を繰り返してきた。戦後日本は戦争に加担することがなかったと言えるのか。

 たしかに平和は保たれ、日本人が戦争で血を流すことはなかっただろう。だが、それは憲法9条があったからではなく、明らかな戦力としての自衛隊と安保条約があるからではないか。

 こうした著者の主張に、私としてまったく異論がないわけではない。だが、ここに「まともな議論」があることは疑わない。こうした議論に正面から立ち向かおうとしない「憲法学者」たちに失望する。

 むろん、著者は安倍政権の改憲論に賛成しているわけではない。その欺瞞も厳しく指摘している。だが、私には「護憲派粉砕」の方がずっと刺激的だった。

 最後に一言。本書は編集者のインタビューというかたちで作られている。本書の著者は、たとえば『法の理論』(33号、成文堂)といった学術誌に長大論文を寄稿している。内容的には本書と重なる部分が多い。しかし、一般の読者は、こうした学術誌に接することはないし、なかなか読みこなすこともできない。

 その意味で、こうした分かりやすいかたちの一般書にして出版した編集者の仕事を評価したい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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