林 道郎(はやし・みちお) 美術史家、美術批評家
1959年生まれ。東京大学文学部卒業。1999年、コロンビア大学大学院美術史学科博士号取得。武蔵大学准教授などを経て、上智大学国際教養学部教授・学部長。著書に『いま読む! 名著 死者とともに生きる――ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す』(現代書館)、『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』(全7巻、ART TRACE)など。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
硬直した性器中心主義の反復
前回述べたような意味で、今回の判決は、未来時制と過去時制の齟齬が明瞭に出た判決だった。
「ろくでなし子裁判一審判決を受けて(上)――「かつてはこうだった」という保守的な判断」(WEBRONZA)
まず、注目すべきは、弁護側がこの裁判でわいせつ物陳列を規定した刑法175条そのものの違憲性を問うたことだ。残念ながら判決では一蹴されてしまったが、かねて問題視されてきた刑法175条(その起源は明治時代!)が未だに存在していることの問題は根深い。
なぜなら、その条文の曖昧さと視覚情報の生産・流通をめぐる情報環境の複雑きわまりない変化が相まって、かえって官憲側に、思考停止ともとれるような、硬直した性器中心主義を反復する事態を招いているようにも思えるからだ。
実際、今回の判決でもその態度は踏襲されている。「デコまん」はポップアートの一種と考えられるかもしれないとして無罪になったが、判決要旨を読めば、力点が、その外観が女性器とはわからないように装飾されていることにあるのは容易に見てとれるし、それは、逆に3Dデータの方が、性器の形状を正確にコピーしたもので(色彩や肌理は欠けているが)、隠すための改変がなされていないことから有罪判決を招いたことと正確に対をなしている。
つまり、未だにわいせつの基準は「性器露出」という事実判断一点に還元されていて、それに従うことが、過去の判例とも矛盾しないと考えられていることが透けて見えてくるのだ。「デコまん」の無罪は、むろん結果として喜ぶべきことだが、作家本人が主張している男性中心主義的な価値観の相対化という点からではなく、もっぱら外見上の装飾を勘案した結果なのだ。
ゆえに、「表現の自由」が潜在させている変更可能性の観点は、今回の判決においては、ほぼ勘案されなかったというのが実情であり、作家本人の即日控訴という判断は、3Dデータの有罪に対する挑戦にとどまらず、思考停止のままにあるそのような裁判所の態度変更に向けたもののようにも思える。
この性器露出という事象だけに焦点化するという態度は、しかし、実は法の適用において一貫しているとは思えない。
ろくでなし子さん(被告)が彼女のプロジェクトの支援者に渡した3Dデータは、プリントアウトの状態で見た限り、