「美術」であるから無罪という結論に満足してはならない
2016年05月25日
「ろくでなし子裁判一審判決を受けて(上)――「かつてはこうだった」という保守的な判断」(WEBRONZA)
ろくでなし子裁判一審判決を受けて(中)――硬直した性器中心主義の反復(WEBRONZA)
まず、基本事実として再確認したいのは、ろくでなし子さん(被告)の今回の3Dデータ頒布は、「マンボート」という一人乗りカヤックを制作するプロジェクトの一環として行われたということだ。
つまり彼女は、問題の3Dデータをそれ自体として販売した事実はなく、あくまでも「マンボート」プロジェクトの範囲内でごく限られた人に配ったにすぎない。しかもそのデータは、上述したように無味乾燥なもので、それを実際に見るためには専用のソフトウェアが、またプリントアウトするには一般にはほとんど普及していない3Dプリンターが必要になる。
ここには少なくとも二つの重要な問題が示唆されている。ひとつは、美術とテクノロジーの問題だ。新しいテクノロジーが社会に登場したときに、その表現上の可能性をめぐって様々な試行錯誤が繰り返されるのは、美術の現場においては当然のことである。19世紀前半に写真が登場したときには、芸術性に欠けるとして大いに批判されたが、その後の歴史をへて、いまや写真は美術表現の媒体として立派な市民権を得ている。
基本的にはこれと同じことが3Dプリンターにおいても起こるだろう。どのようにしてその技術の使用価値を発見していくのか、すでにその実験は始まっており、今後もさらに多様な試みがなされていくにちがいない。
ろくでなし子さんにも、ある必然性があった。なぜなら3Dデータは、直接印象材を性器に当てて制作する「デコまん」と異なり、
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