佐藤正午 著
2016年06月02日
エッセイでもなく雑文でもない、正真正銘の「随筆」である。
しかし大上段に振りかぶったテーマは、たちまち日常性に押し流されて行き、あとは、「ワープロ」(カッコ付きがテーマ)から「パソコン」へ、そして「ボル」(ボルは縁のないカップ)から「ホワイトボード」「透明感のある文章とは?」とつづき、随筆集のなんというか王道とも言える「椅子」「老眼鏡」、そこから転調して「幸運について」「二十年後のスパゲティ」とくる。
そして僕がかってに山場と判断する、近松秋江の「黒髪」がきて、また随筆にふさわしい題材、「副産物」「節電」「ならば」「頭書」「皿の謎」「喪服」「貰い水」がならぶ。
そこから先は、作家にふさわしい内容の、「手紙」「文豪病」「さん(‘‘)づけの時代」「作家さん」「背文字の人」「サイン会観」ときて、2015年夏の「理想形」で終わる。
しかしなんですねえ、こういうふうにタイトルを羅列していっても、何の足しにもなりゃしませんね。読んでるほうでも、なんだこれはと思うのではないだろうか。ではどういうふうにやればよいか。
たとえば「パソコン」であれば、「いまどきのパソコンのディスプレイはでかくて、まだ眠らせている状態で向き合うと画面に自分の顔がくっきりと浮かび、毎朝仕事を始める前にその顔を見て、老けたな、と思う」。
あるいは「椅子」であれば、「朝起きると仕事机の椅子にすわり、一段落して食卓の椅子に移り、腹をみたすと長椅子でくつろぐ。毎日まいにち三つの椅子のあいだを行ったり来たりするのが僕の人生である。変化というものがない」。
また、「今後も毎日、机に向かうたび昭和のヤクザスタイルで煙草に火を点け、せめて小説のスタイルがそっち寄りにならないよう言葉づかいに気を配るくらいしか手だてはない」。
これは居酒屋の女の子と雑談中に、『冬の華』の高倉健と佐藤正午は似ているという話になり、気を良くしてよく聞いてみると、2012年の佐藤正午は、1978年の高倉健と同じハイライトを吸っている、でもあたしの周りではそんなものを吸っている人はいない、というオチだ。
だから「頑固にハイライトとジッポを手放さず仕事を続けていると、いつか作風に影響がおよび、昭和のヤクザっぽい小説を書いてしまうかもしれない。いやもう書いてしまっているのかもしれない」。
終盤は作家らしく、言葉についてお小言を言う。何でもさん付けする時代だが、ついに「作家さん」と呼ばれるようになり、たちまち市民権を得た、こんなことでいいのかと言ってももう遅い。あるいは、サイン会は苦手だが、しかし理想のサイン会を思い浮かべることはできる、というような話が続く。
佐藤正午の随筆集は、同じ岩波書店から『ありのすさび』『象を洗う』『豚を盗む』ときて、これが4冊目である。3冊目の『豚を盗む』が2005年であるから、11年ぶりの随筆集である。これが『小説家の四季』というタイトルで、ほんとうに年4回の連載だと知ったときには、もう1冊に纏まることはないと思っていた。おまけに『世界』だしなあ(現在は岩波書店のホームページ上に、やっぱり年4回)。
そこで、それを纏めるにあたっては、他からも掻き集めてきた(失礼!)。その中に「作家の口福」という一章があり、佐世保を訪れた編集者と打ち合わせをする場面がある。
編集者は例外なく生ビールをジョッキで飲む。真冬の、雪になりそうな夜にも、生ビールを何杯も飲みほす。
「どんな胃袋をしてるんだよ、と僕は思う。海賊か。九州に遠征した海賊の酒盛りか。僕は人質か? でもそれは思うだけで言わない。言えば仕事に支障をきたすかもしれないので言わない。海賊のかしらのような飲みっぷりを、黙って見守っている」
「随筆集」は、本が売れなくなるにしたがって真っ先に先細りになっていった。企画会議のときに、これは売れます、これはこんなふうに役に立ちます、と言えないもの、それが「随筆集」なのである。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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