最後まで疑いを捨てられないドキュメンタリーの醍醐味
2016年06月10日
青木るえか「佐村河内守さん事件、最初は笑ったが、だんだん胸が痛くなり……」(WEBRONZA)
中川右介「『時代錯誤』の作曲家・佐村河内守――ハンディキャップ・クラシックと『感動の美談』」(WEBRONZA)
藤崎康「佐村河内事件、および『FAKE』について(上)――われらの欲望が生んだ偽ベートーヴェン」(WEBRONZA)
映像が、大きく揺れている。カメラが揺れているからだ。それは、森達也の心の揺れにも見える。佐村河内守の自宅に入る、その最初の瞬間。
佐村河内と正対して語りはじめ、問い始めるとき、揺れは止まる。森達也の覚悟が定まる。
ただひたすらカメラを回すことで、ただひたすら佐村河内に問いかけることで、まだはっきり形にならない何かを、森はフィルムに焼き付けていく。
撮影の進行のみが、伝えるべきことを炙り出す。ドキュメンタリーの醍醐味である。
森達也15年ぶりの監督作品『FAKE』は、聴覚障害を持ちながら「鬼武者」などのゲーム音楽や『交響曲第一番《HIROSHIMA》』などを作曲、「現代のベートーベン」とまで称賛されながら、新垣隆の「ゴーストライター」告白によって一気に失墜した後の佐村河内守を撮り続けたドキュメンタリー映画である。
佐村河内は、自身は楽譜の読み書きができず、指示書を新垣に渡すという方法で曲をつくっていたから、作った曲は新垣との共作であることは認めるものの、逆に新垣一人の手によってつくられたものではなく、それゆえ新垣が「ゴーストライター」を名乗ることは認めていない。
そして何より、協力して作曲活動を続けてきた新垣が、自身の聴覚障害を否定するような言葉を吐くことが、信じられないし許せないと言うのである。
障害を持つ人にとって、その障害が「ウソだ!」と思われることほど傷つけられることはない。新垣の告発が事実無根のものであるならば、佐村河内の怒り(ではなく「悲しみ」と彼は言う)はよく分かる。
だが、そもそも聴覚障害を持つ人が音楽をつくることができるということを、「健常者」は想像しにくい。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください