矢部宏治 著
2016年07月01日
尾籠な話で恐縮ですが、私は取材を終えたあと、よく便意に襲われます。根が小心者なので、緊張が解けるせいなのかもしれません。
そんなとき、郊外の駅前だとパチンコ店、都心だとホテルのロビーにあるトイレが役に立ちます。
その日は都心だったので、携帯で地図を開き、近くにホテルの表示を発見。それっぽい、でもいかめしい建物があったので接近します。車寄せはあるけれど入り口が分かりにくい。警備員らしい人に尋ねてみたら、なぜかものすごく怒られました。
なんだお前は、身分証明書を出せ、ここは招待されていない者は入れない、ちょっとロビーに行きたいとかそんな話はあり得ない、すぐ立ち去れ。そんな感じでした。
なにそれ?と思ったのですが事態は急を要してきたので論争する余裕もなく退散し、必死で徘徊した結果、コンビニを見つけ、どうにか事なきを得ることができました。
よくよく考えると、この「ホテル」での体験は異常なことです。しかし当時の私は、下半身の危機を乗り越えた安堵が強く、それっきり忘れておりました。
ところが本書の著者、矢部宏治氏は、私が感じたような「なにそれ?」を放置したりはしません。疑問や違和感を丹念に掘り下げた先に日本全体の歪みを発見する、さまざまな好著を書かれてきています。
『日本はなぜ「戦争ができる国」になったのか』(矢部宏治 著 集英社インターナショナル)
素朴だけれど本質的な疑問が、戦後日本には存在します。
どうして日本には「憲法9条」と「在日米軍」が両立しているのでしょう。この両者のいい悪いを別にして考えても、明らかに矛盾としか言いようがありません。
ここで著者は、「日本国憲法が現実にそぐわないのだから変えるべきだ」みたいなシンプルな結論を叫んだりはしません。
まずはこの矛盾を真剣に解く努力をしないと、どんな結論であっても、それに大多数が合意することはあり得ない、というのです。
そのために著者がとる方法は「近くまでいって、きちんと観察する」こと。これを愚直に重ねることで、私たちは矛盾の本質を理解できるのだそうです。
さて、私が追い返されただけで考察をやめた「ホテル」。著者はここでも「近くまでいって、きちんと観察する」のです。ここは「ニュー山王ホテル」というのですが、正式名称は「ニュー山王米軍センター」。れっきとした「米軍基地」だったのです。
だから、私を追い返した警備員は銃を持っているのです。あのとき便意に耐えかねた私がバイオテロ的行為におよんでしまったら、どんな恐ろしいことになっていたのでしょう。
それはともかく、どうして都心に一般人立ち入り禁止の「米軍基地」があって、そこでなにがおこなわれているのか。
本書は、ここで60年以上にわたって非公開の日米合同委員会が開かれ、米軍が日本中で治外法権的に活動できるよう、さまざまな取り決めがなされてきたことを明らかにします。
ニュー山王ホテルは日本の官僚を呼びつけるのに便利な場所だったのですね。
結局、東京も沖縄も同じなのです。近づいたら追い返される「米軍基地」があり、米軍機が危険な飛行をしても米兵が犯罪をしても、文句を言うことはできない。
どうしてそんな無茶が通るようになってしまったのか。やっぱり先ほどあげた「矛盾」に突き当たってしまうわけです。
そして、ここからはじまる「矛盾」の謎解き、とても面白く、また恐ろしいです。
ですがとてもやさしい文章で書かれ、丁寧に段階を踏んで読ませてくれるので、怖い内容でも目をつぶることができません。「書いている私のために」などとフォローしながら、混乱しそうな話題にさしかかると既出のデータを改めて整理して見せてくれます。
少しネタバレをすると、こういう具合に無茶を押し通す米軍は、戦後すぐの日本にとっては「国連軍のようなもの」だったというのです。
憲法を文字通り解釈すると日本は非武装中立になるけれど、それで完璧な安全保障ができるわけではない。実際、朝鮮戦争が大変なことになっている。ならば朝鮮戦争が終わるまで、国連軍が駐留でき、その活動に日本側も便宜を図れるようにしよう──。
本書をものすごく乱暴に要約すると、こうした理屈が「矛盾」の出発点にあったのです。
ですが、この理屈だけを取り出すと、なんだか「あり」な気もしてきます。実際、マッカーサーもこれでいいだろうと考えていたようです。
ところがこの理屈、反共で貫かれた世界秩序を構想したジョン・フォスター・ダレスらによって次々と骨抜きにされて、現在のような事態へと連鎖していくのです。
本書は膨大な資料を調査し、その恐ろしいプロセスを完璧に再現していきます。
そしてこの調査結果から立ち上がってくる、「自衛隊は世界のどこであっても米軍の指揮下に入らねばならない」という「指揮権密約」の存在──。
読者はこうして、いまの日本で進行している事態が抜き差しならないものであることを知ってしまうのです。
ならばどうすればいいのか。著者は「あきらめる必要はない」と訴えます。
私たちには政治についての自己決定権があり、国のかたちを自分たちで決める権利があるからです。
そして、著者が繰り返すとおり、「近くまでいって、きちんと観察する」ことで、相対的にウソの少ない、筋の通ったことができる政治家を選ぶこともできるはずです。
ということで、私も緊張をもって投票所に向かうことにします。トイレを探すのはそのあとですね。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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