森達也のトリックスター的振る舞いは、公共性の再構築を提起する
2016年07月05日
福嶋聡「すべては佐村河内守と森達也の『FAKE』なのか――最後まで疑いを捨てられないドキュメンタリーの醍醐味(WEBRONZA)
藤崎康「佐村河内事件再考、および森達也『FAKE』について(上)――われらの欲望が生んだ偽ベートーヴェン」(WEBRONZA)
藤崎康「佐村河内事件、および『FAKE』について(下)――真偽の彼方に?」(WEBRONZA)
2014年、佐村河内守のゴーストライター騒動が大きく報じられたとき、私も含めた多くのひとはこう思ったはずだ。
「それ、誰?」
もちろん知っていたひともいたのだろうが、多くのひとはクラシックや現代音楽には興味がないし、テレビばかり観ているわけでもないから、知らなくても不思議ではない。だが、後に書籍『ペテン師と天才──佐村河内事件の全貌』としてまとめられた神山典士のスクープ記事によって、佐村河内守は一躍注目された。
なにより芸能人の不倫騒動などと違って、ニュースの受け手にとって「明日は我が身」的な不安要素もない。あるいは、同時期に生じたSTAP細胞騒動のように、特定の業界への強烈なダメージもなく、死人も出ていない。
佐村河内守のファンと関係者以外は、安全地帯から気楽に消費できる格好の題材だった。
森達也のドキュメンタリー映画『FAKE』は、騒動が沈静化した2014年後半以降の佐村河内守を追った作品だ。
映されるのは、ほとんどが佐村河内の住むマンションだ。妻の香と猫とともに静かに暮らすその家の中は、いつも薄暗い。そこで佐村河内は、新垣隆がオモチャにされる年末のテレビ番組を眺める。
森達也は、過去にオウム真理教の信者をその内部から描いた『A』、『A2』で知られる。『FAKE』の前半部は、基本的にそれらの構造と変わらない。世間からひどくバッシングされた存在の懐に入り、そちらから世間の方を眺める。バッシング報道によって構築された観賞者の先入観は、そこでまず崩される。
明らかとなるのは、佐村河内守の人となりだ。線路が見えるベランダでタバコを吸い、食事前に豆乳をごくごく飲み、そして「甲斐甲斐しい」という形容がぴったりな妻・香がいつも寄り添っている。森達也作品に免疫がないひとは、これまでの報道では見られなかったこうした描写で徐々に認識が変わっていく。なかにはこう思うひともいるかもしれない。
「マスコミは嘘ばっかりだ! あれは真実じゃなかったんだ!」と。
「マスゴミ」という表現がある。マスコミを揶揄するこのネットスラングは、概して大手マスコミを批判する文脈で用いられる。とくにそうした名指しをされるのは、朝日新聞やフジテレビだ。
このふたつのメディア企業が、まるで正反対の思想的な立ち位置であることからもわかるように、「マスゴミ」という揶揄は特定の政治的イデオロギーから発せられるわけではない。この表現を用いる人は、もっと素朴に「マスコミは、“真実”を報道していない」という疑念を抱いていることが多い。
そこでは、「誰もが納得できる透明の“真実”がある」とする前提も置かれている。このときに森達也は、マスコミの提示する“真実A”に対して、“真実B”を提示する存在だと見なされることも少なくない。
10数年前、実際にそういうシーンを目撃したことがある。
森の母校である立教大学で、全作品の上映会があったときのことだ。すべての作品が上映された後、立ち話をしていた筆者と森のもとに真面目そうな学生が歩み寄り、真っ直ぐな眼をしてこう言った。
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