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[書評]『海を渡る「慰安婦」問題』

山口智美ほか 著

野上 暁 評論家・児童文学者

歴史修正主義者たちによる恐るべき情報戦略の実態  

 先の参議院選挙で、改憲勢力が3分の2議席に達し、衆議院では既に3分の2を確保していることから、憲法改正問題がにわかに現実味を帯びてきた。安倍首相の憲法改正に向けての執念は、「慰安婦」問題をはじめとする、日本の植民地主義や戦争責任を否定する右派の歴史修正主義と表裏をなしている。

『海を渡る「慰安婦」問題——右派の「歴史戦」を問う』(山口智美他 著 岩波書店) 定価:本体1700円+税拡大『海を渡る「慰安婦」問題——右派の「歴史戦」を問う』(山口智美ほか 著 岩波書店) 定価:本体1700円+税
 そしていまや、「慰安婦」問題は単なる歴史認識をめぐる見解の違いではなく、米中韓が連携して日本を攻撃しているのだと危機感を抱く歴史修正主義者たちが、「歴史戦」と称して、アメリカをはじめ海外への情報発信を強めているというのだから、穏やかではない。

 「歴史戦」は第2次安倍内閣成立以降に本格化する。

 そのきっかけになったのは、2010年にアメリカのニュージャージー州パリセイズパークに「慰安婦」碑が建てられたことだと山口智美はいう。

 その後、13年、カリフォルニア州グレンデール市の「慰安婦」像建設に対し、日本の右派や在米日本人右派が反対運動を起こして、市を相手取った訴訟問題にまで発展する。

 以後、アメリカばかりか、オーストラリア、カナダ、フランスなど各地で、「慰安婦」像や碑などの建設、博物館での関連展示や「慰安婦」決議に対して、内外の右派日本人から抗議運動が起こり、そこには大使館や領事館も関与した。

 安倍と右派論壇の結びつきの強さを象徴するものとして、能川はポスト小泉の自民党総裁経験者である福田康夫や麻生太郎、谷垣禎一の、雑誌『正論』や『諸君!』(後に『WiLL』)での登場回数を、安倍と比較する。

 2000年2月号から12年10月号の間に、安倍が『正論』に20回、『諸君!』『WiLL』に17回登場しているのに対し、福田は全くなし、麻生は『諸君!』に、谷垣は『正論』に、それぞれ1回の登場のみ。安倍は、首相退陣から2度目の就任となる2007年11月号から12年10月号までの間でも、『正論』に11回、『諸君!』『WiLL』に10回も登場しているから、その頻度は群を抜いている。安倍は右派論壇から待望された総理大臣なのである。

 安倍の再登場を好機として、「歴史戦」の勝利を目指し、物量作戦でキャンペーンが展開されるのだが、「南京事件」も「慰安婦」も捏造であるとする彼らの主張を、国際社会が認めるわけがない。右派が政府の弱腰を追求し、政府が期待に応えて声をあげればあげるほど、日本政府に対する国際社会の反応は厳しいものになる。

 10代の頃から20年以上もアメリカに住み、大学で女性学を学び、性暴力被害者センターでのボランティアをきっかけに、以来ずっと性暴力やDV問題にかかわってきた小山エミは、日系アメリカ人が「慰安婦」碑に反対しているという日本メディアでの記事に、事実無根だと反論する。

 日米開戦とともに日系人は大日本帝国軍の手先だとして日系人収容所に入れられ、それから何十年も過ぎた今でも、アメリカへの忠誠心を疑われることが日系人の歴史的トラウマになっている。

 戦後になってから来た保守系日本人が、まるで日系人の代表のようなふりをして大日本帝国を擁護する運動を始めたことに、日系人が反発するのは当然だという。彼らは戦後アメリカに渡ってきた「新一世」で、「慰安婦」碑反対運動をしている大多数は「新一世」だという。

 「慰安婦」否定論者たちは、実体のない「日本人いじめ」を喧伝したり、市民団体やジャーナリストを相手に「恫喝訴訟」を起こしたりの嫌がらせを繰り返す。「慰安婦」否定を主張するイベントには、「幸福の科学」や「日本会議」関係者や、「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝らも参加することがあるという。

 そういった集会に対し、地元の平和団体や反戦・反核団体が抗議活動を仕掛けたりもしている。抗議に参加した「反核行動委員会」のスティーブ・ゼルツァーは、「安倍政権はアメリカの後押しを受けて軍国主義化を進めている。過去の戦争の歴史を書き換えることは、新たな戦争を始める第一歩だ」と小山のインタビューに答えたという。

 テッサ・モーリス・スズキは、戦後70年にあたる2015年8月14日の安倍首相による「戦後70年談話」をとりあげ、「これは、日本近現代史にかかわる基本的部分についての、誤った解釈に基づいて作成されたものだった」と述べる。そして日本軍占領下のインドネシアで、慰安所に強制連行され悲惨な性労働を強いられたヨーロッパ系女性たちの「スマラン事件」のケースを紹介する。

 また2015年10月、スズキのもとに国際政治学者であり自民党国会議員の猪口邦子から、「まるで大日本帝国による戦前のプロパガンダそのままのような」主張を展開し、「河野談話」を否定して嘲笑と非難を浴びせる、英語に訳された本が2冊送られてきたという。政府自民党の有力メンバーが、歴史修正主義本の海外配布と対外配信を積極的に展開しているのだ。

 終章で山口智美は、国内でも、2000年代中盤にネット動画サービスが拡大すると、それをいち早く活用したのが右派で、ユーチューブやニコニコ動画、「2ちゃんねる」などの掲示板やmixiなどのネット媒体を通じて、政治家や右派論者らが発信する「慰安婦」否定論が広がっていったという。

 そして2009年の民主党政権誕生に危機感を抱いて、これらの運動体は、より活発な街頭運動などを展開する。右派の間で、2012年頃から、「慰安婦」問題の主戦場はアメリカだととらえられるようになった中で、第2次安倍内閣が発足する。

 こうして自民党と日本政府も巻き込んだ「歴史戦」が英文パンフを使って海外で展開されるとともに、外国の研究者やジャーナリストに対するバッシングも起こる。日本国内で右派の「歴史戦」は着々と成果をあげ、アメリカや国連を主戦場にさらなる浸透を目指しているというのだから無視できない。

 そしてこういった成果が、自民党一強政治の底流にあるのだとすると、心してかからねばならない。2014年に導入された教科書検定に関する新基準では、すでに「慰安婦」問題についての記述に介入がなされ、関東大震災時の朝鮮人虐殺や南京大虐殺に関する中学・高等学校の教科書記述にもクレームがつくなどということが現実化している。

 歴史的事実を歪曲し、あったことを無いことにし、日本が侵した誤りを否定する歴史修正主義者たちの、官民一体となった知られざる情報戦略の実態にどう対応すべきか。まさに戦後日本の大きな曲がり角である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

野上 暁

野上 暁(のがみ・あきら) 評論家・児童文学者

1943年生まれ。本名、上野明雄。小学館で子ども雑誌、児童図書、文芸書、学術書などの編集部門を担当。著書に『おもちゃと遊び』(現代書館)、『「子ども」というリアル』『日本児童文学の現代へ』(ぱろる舎)、『子ども学 その源流へ』(大月書店)、『越境する児童文学』(長崎書店)など。編著に『わたしが子どものころ戦争があった――児童文学者が語る現代史』(理論社)、『子どもの本ハンドブック』(三省堂)、『いま子どもに読ませたい本』(七つ森書館)など。日本児童文学学会会員。日本ペンクラブ常務理事。