渡辺京二 著
2016年07月21日
「あとがき」に、著者はこんなふうに書いている。
《死がほんの近くに見えている身としては、最低言っておかねばならぬことを言っただけだが、この手の発言はこれでもう打ち止めにしたい》
私が初めて渡辺さんの著作に接したのは、その雑誌に掲載されていたいくつかの論稿だった。
まだ「渡辺京二」は「知る人ぞ知る」というべき存在だっただろう。「北一輝問題」など日本近代史を素材にした切れ味のいい文章に瞠目した。
というわけで、渡辺京二さんの本は昔からずいぶん読んできた。『逝きし世の面影』(現在は、平凡社ライブラリー版がある)で、本人もびっくりするような読者を得た。今では大型書店に行けば「渡辺京二コーナー」があるぐらいだ。
そんな昔からのなじみ(?)に、冒頭のようなことを書かれては、どうしても読まないわけにはいかない。
本書冒頭に収められた書名と同じ「さらば、政治よ――旅の仲間へ」が、「あとがき」に記された「打ち止め」の文章である。85歳の著者は、怖いものは何もないといった感じでズバリズバリと現今の時局的言説を切って捨てる。
著者の標的は、まずは「旧態依然たる左翼の皆さん」の言説に向けられる。いきなり「日本の世相が一九三〇年代の戦争直前期に似て来たという人は、あるいは無知に災いされているのかもしれないが、デマゴーグだと思う」と述べるのである。
30年代の日本はいちじるしく思想・言論の自由が制限されていた。共産党は非合法だった。美濃部達吉の天皇機関説をはじめ自由主義的な思想すら弾圧された。
5・15事件や2・26事件などの軍事クーデタ未遂、血盟団によるテロもあった。世間で幅を利かせていたのは、忠君愛国、滅私奉公のエートスである。
その他多くの例を挙げて、著者は「いったいどこが似ていますか」と書く。
集団的自衛権を認める安保法制が大きな論議を呼んだ。これをめぐる時局的言説も俎上に上る。
《安倍内閣は歴史修正主義の傾きを持っており、過去に蒙った日本の悪評を弁明したいという意図をちらつかせる。しかし、それも近隣アジア諸国の反発をおそれて、自制する分別を忘れていない。安倍自身が戦争をしたくてたまらない人間だと考えるのは滑稽である。彼は単なるナショナリスティックな気分の持ち主である》
むろん著者はタンカを切っているだけではない。たしかな時代認識をもとにステレオタイプな言説の誤謬を指摘しているのである。その時代認識はグローバリズムの中で国民国家がかかえる宿命とでも言ったらいいか。
国民国家という世界構成の枠組みが変わらない以上、国家間の利害対立は避けられない。ナポレオンのフランスで誕生した国民国家はグローバリズムの中でしぶとく生き続けている。そして、いまや世界は経済ナショナリズムの闘争の場としてかつてより一層苛烈になっているというのが、著者の時代認識である。
その闘争の場において、「国民国家」は私たちの生の条件であり、必要悪なのである。私たちは「国民」であり、「民族」であることを逃れられないのだ。こう指摘しつつ、著者は次のように書く。
《問題は国際社会における日本の地位などではない。……大国幻想とは徹底して手を切らねばならない。日本はそこに住む人たちにとってよい国になればいいのである》
しかし、「大国幻想」と手を切ることはともかくとして、「日本はそこに住む人たちにとってよい国」になるためにも経済ナショナリズムの修羅場であるグローバリズムと無縁でいられないところがやっかいなのではないか。いかにも『逝きし世の面影』の著者らしいと思いながら、そんな疑問を持った。
本書の最後に「ポランニーをどう読むか――共同主義の人類史的根拠」が収録されている。1980年に葦書房主催で行われた講義の記録である。私は、この講義をそのとき聞いた一人である。当時、不勉強にしてカール・ポランニーという人をまったく知らなかった。なんだかとても懐かしく読んだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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