互盛央 著
2016年07月28日
『日本国民であるために——民主主義を考える四つの問い』(互盛央 著 新潮選書)
この本は副題に「民主主義を考える四つの問い」とある。それはこういうことだ。
1. 通勤電車で割り込んでくる人と、関わりあうのは厄介だから見てみぬふりをする自分とは、いったいどこが違うのか。
2. 選挙で候補者が自分に入れることはずるいのか。
3. 国会で新しい法案を通そうとしている政府と、それに反対してデモをしている人たちがいて、そのどちらにも気の進まない自分は、いったいどうすればいいのか。
4. 戦争を知らない私は、過去の日本人が犯した罪に、責任を負わなければいけないのか。
つぎに民主主義とは何か、つまり王権神授説から社会契約説へという流れを説き、「一般意思」とは、「個別の意思」や「全員の意思」に先駆けてあるものであり、それはまるで一般言語学のラングとパロールの関係に似ている、ということが言われる。
そして、いよいよ日本の問題になる。端的に言えば、戦後の平和主義を体現する日本国憲法は、アメリカによって与えられ、しかもその平和主義を守ってきたのは、アメリカとの同盟と自衛隊の存在だった。つまり憲法9条は、原理的に日米安保条約と相互補完的であったのだ。
だから憲法9条も日米安保条約も、どちらも廃止することが望ましいのだが、しかしどちらもしばらくは動かしようがない。そこで日本国憲法の読み方を変えてみたい、というのが著者の提案である。
以上のことだけでは、なんのことかわからないだろう。だが、さまざまな創見や提案に満ち溢れた本である。しかし、ここではあえて自分の意見を述べてみたい。
憲法9条も日米安保条約も、どちらも破棄してしまいたいというのは、いってみれば戦後三代目の意見である。9条による平和条項、つまり非戦条項は、正確に言えば主権制限条項であって、日本は自衛力はもっているが、それを行使する力は持っていなかった。
繰り返すが、それは三代目以後の意見である。ここで三代目と言うのは、戦争に行った世代を一代目、それを親とするのを二代目(例えば僕だ)、さらにその子供を三代目と称する。もちろん戦争に行ったとは言っても、そこには無数のヴァリエーションがあるだろうが、しかし戦争に行った世代と行かない世代では、全く違うはずだ。
著者はまた、こう述べたりもする。「日本国憲法が『原子爆弾という当時最大の「武力による威嚇」の下に押しつけられ、また、さしたる抵抗もなく、受けとられている』という事実」。これなどは戦争に行った世代のみならず、同じ世代を生きていた人は、勘違いも甚だしい、噴飯ものである、と激怒するのではあるまいか。
15年戦争を生き抜いた人たちは、原爆は許すまじと思ったとしても、戦争が終わることに対しては、ほっとしたはずなのだ。だから、この本で言われているような、国家としての主権が不完全であるとか、健全な民主主義には程遠いとかいった議論は、戦争を終わらせることに比べれば、非常に空疎に聞こえるのだ。
しかし、では著者の議論は畳の上の水泳で、つまらないものだろうか。そうではない。今から20年経てば、戦争に行った人は、間違いなくこの世からいなくなっている。天皇陛下はことあるごとに、あの戦争を思い出せと言うけれど、そういうことを直接思い出す人が、もういなくなってしまう。第一世代は戦後90年たてば、もうどこにもいない。
そのとき、著者のこの本は威力をもつ。結局、こういう議論を詰めていく以外に、道はないのだ。15年戦争の記憶ではなく、たとえば冒頭の四つの疑問から、憲法を考える以外に方法はないし、またそうすることが当たり前になる。
けれども放っておけば、基本的人権や国民主権や平和主義はないがしろにされ、もっと言えば、明治憲法に戻したりするような圧力がかかるだろう。ここから20年、何をすべきなのか。戦後90年たったとき、もとへ帰っただけと言われないために、どうすればいいのか。死に物狂いで考えなければならない。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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