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強すぎるカープに、自分の気持ちがわからない

25年ぶりの優勝を確信して

松谷創一郎 ライター、リサーチャー

前回優勝時の高校生は40代に…

 あのときは、次が25年後だなんてまったく思っていなかった――。

 私が広島市の高校2年生だった1991年、カープはリーグ優勝を飾った。1986年以来、5年ぶりのこと。初優勝が1975年で、17年で6回目だ。3年弱に一度は優勝していたことになる。カープの優勝は、広島では恒例の風景だった。

1991年プロ野球日本シリーズの1991年の日本シリーズ第2戦でタイムリーを打った前田智徳
 その年、いまでも印象深いのは、西武との日本シリーズだ。当時の日本シリーズは、平日もデイゲームだった。しかもこのときは、平日の3~5戦が広島での試合。よって、学校のある私たちは、球場にも行けず、テレビも観ることができなかった。

 となると、どうするか――携帯ラジオで聴く。

 クラスの幾名かはイヤホンを片耳に差し込み、頬杖でイヤホンを隠して授業を受けていた。なかでも最前列の席だったケンちゃんは、教壇の側面に即席のスコアボードを作り、ラジオで知った速報を逐一他の生徒に伝えていた。

 教師にはもちろんバレる。しかし、とくに目くじらを立てる教師もいなかったと記憶する。校則が緩い学校だったこともあるが、広島におけるカープとはそれだけ特別な存在だからだ。

 もし教師がそれに本気で怒るようなら、生徒から白い目を向けられるだけ。実際、教師だって試合経過が気になっていたはずだ。広島は、このようにカープが生活に密着している街だ。

 この日本シリーズは、山本浩二監督率いるカープが先に王手をかけたものの、6、7戦で森祇晶監督率いる西武ライオンズに連敗し、結局負けてしまった。

 このときのカープは、75年から86年まで5回優勝したときのチームとは大きく変わっていた。∨5までを支えた山本浩二と衣笠祥雄が、86、87年シーズンを最後に相次いで引退し、高橋慶彦や長嶋清幸もトレードされていた。

 この年は、完全に投手力のチームだった。MVPを獲得する2年目の佐々岡真司を中心に、ベテランの北別府学・川口和久の3本柱、そして抑えは大野豊と盤石の体制だった。彼らを翌年引退するベテラン捕手・達川光男がリードしていた。

 一方、打線は湿っぽかった。チームの総本塁打数は88本。主軸は不在で、4番は規定打席に達しなかった西田真二とこの年かぎりでクビになるロッド・アレンが交代で務めていた。正田耕三と山崎隆造は健在だったが、主砲として期待されていた小早川毅彦は伸び悩み、江藤智もレギュラー定着はまだだった。前田智徳は2年目ながらレギュラーの座を掴んでいたが、本格的なブレイクはこの翌年から。現監督の緒方浩市は守備固め要員だった。チームは、前年に続いて盗塁王を獲得した3年目の野村謙二郎が中心だった。

 後に知るのは、この年のカープは4月の津田恒実の離脱によって強く結束していたということだ。一般には水頭症と発表された津田が脳腫瘍で亡くなるのは、それから2年後だった。

 とは言え、チームは姿を変えたけど、カープが強いのはいつものこと。86年に続き、森・西武をギリギリのところまで追い詰めた。世代交代も上手くいったからこそのこの結果だ。きっと次の優勝もそんなに遠くない――多くのカープファンは、ぼんやりとそう思っていた。

 まさか25年後になるとは思っていなかった。高校生だった私は42歳となり、いまの20代は優勝を知らない。

もうなにがなんだかわからない

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