生涯にわたる自己処罰者として
2016年08月17日
没後30年、「単独者」鮎川信夫の肖像(上)――永遠の遺言執行人として
私が神奈川近代文学館を訪れた7月2日には、「鮎川信夫という謎――詩と生のあり方」と題された樋口良澄の講演があった。
そうした「謎」の背後には、鮎川の自己像がかなり意図的に造形されていたという事情がある。樋口は、それを「鮎川信夫の構築の構造」と呼ぶ。
確かに鮎川にはどこか謎めいたところがあった。
若い頃の私は、同じ「荒地」の詩人の中でも、黒田三郎や田村隆一の方を好んだ。鮎川の詩の言葉は暗く重く、しかしどこか含みがあって曖昧で、何かを隠しているような雰囲気があったからだ。
吉本隆明も、その謎に言及している。もはや古典と呼ぶべき吉本の鮎川論には、次のような一節がある。
かれは際立った個性をふりまくわけでもない。とくに鋭利な論理でじぶんをそば立たせるのでもない。また粘液質な感覚で、ひとびとを強制してしまうのでもない。そこにかれが存在するというだけですでに複数の人間を綜合した何かを発散する。鮎川信夫はそういう文学者のひとりだ。かれはお人好しでもなければ、他者に利用されやすい軽さももたない。また、いわゆる包容力ある人物ではない。ある半透明な柱のようにいつもそこに立ってしまう」(「鮎川信夫――交渉史について」、1965)
この論考は、『戦中手記』の解説として書かれたものだが、吉本の『自立の思想的拠点』(1966)に転載されたから、私の前後の世代にとって、「ある半透明な柱のようにいつもそこに立って」いる鮎川のイメージは親しい。「半透明」とは、半ば正体はつかめても本当にその推量が当たっているのか確信が持てないということだろう。
だから吉本が自身の支援者、庇護者として鮎川を描き、その心性の本質を「やりきれないみじめな心境の子供にたいして、父親に内証で、だまって小遣銭をわたしてやる母親ににている」と書いても、その姿さえどこか焦点の合わない映像のように揺れている。
さらに吉本は次のように鮎川の私生活の雰囲気を伝えている。
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