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[書評]『憲法の無意識』

柄谷行人 著

上原昌弘 編集者・ジーグレイプ

必読のユニークな憲法論  

 著者がもっとも熱く憲法を論じていたのは、湾岸戦争さなかの1991年に創刊された「批評空間」(太田出版、内藤裕治編集長)誌上においてであった。その3年後に創刊された思想誌「大航海」(新書館、三浦雅士編集長)にかかわっていたわたしは、「批評空間」を毎号舐めるように読んでいた。

『憲法の無意識』(柄谷行人 著 岩波書店) 定価:本体760円+税拡大『憲法の無意識』(柄谷行人 著 岩波書店) 定価:本体760円+税
 当時、自衛隊の海外派兵が問題となっていた。現在では大手を振って可能となったこの軍事行動(「集団的自衛権」)は、明らかに憲法に反するものである。

 とくに論点となったのは憲法9条をめぐる議論で、これは日本人が自主的につくった条項ではない、占領軍に強制されたものだとする立場から、自前の新たな憲法をつくるべきだという、保守側からの攻勢があった。

 要するに自衛隊を軍として認知させ、「正当防衛」の戦争を可能にするべきだ、これは世界(特にアメリカ)からの要請なのだ、世界状況を見れば当然だ、という議論がわきおこったのである。

 だが、そもそも「正当防衛を認めれば戦争を誘発する」として、「集団的自衛権」を否定したのは吉田茂自身であった。保守派というのは、実はたんに長いもの(この場合はアメリカ)に巻かれるだけの者たちなのかと毒づきたくもなるが、ともあれ湾岸戦争のころ、護憲派は守勢に追い込まれていたのであった。

 当時、著者は「強制されたことと自主的であることを単純に区別することはできないのではないか」、という注目すべき講演をおこなっている。ここで著者は、戦争を拒んだ内村鑑三のキリスト教信仰を例に出し、彼の反戦の信念の根本は外発的な(具体的には札幌農学校の上級生による)強制に由来するものであるとし、仮に当初強制されたものでも、後には自主的な思想となるのだ、と説いている。さらにまた、さかのぼれば明治憲法、いや開国自体すらも強制ではなかったか、と論旨をつないでいく(講演は「自主的憲法について」1991年、『〈戦前〉の思考』講談社学術文庫に所収)。

 だがこの講演では、占領軍による強制が自主的なものとなるシステムについては、論じられていなかった。そのシステムを、フロイトの理論で説明することができたと、著者は本書の第1章「憲法の意識から無意識へ」で記している(ちなみに本書全体が2006〜2015年におこなわれた講演をもとにしており、第1章の骨子も、2015年に韓国の延世大学でおこなった講演である)。

 ここで著者は、1924年にフロイトが書いた「マゾヒズムの経済論的問題」を引く。人は道徳的意識が先行し、その結果、欲望を断念すると思っているが、そうではない。実際にはその反対で、欲望は外部の力に強制されて断念されるものであり、そこから道徳が生まれ、良心が生じる。後天的に生じた良心が、さらに欲望の断念を求めて行く、という論である。フロイトの念頭にあったのは、キリスト教の道徳的マゾヒズムであろう。苦痛を自己に向けることから良心が生み出される、信仰というシステムである。

 このシステムにあてはめるなら、憲法9条は占領軍の強制によるものだからこそ、日本人に倫理性を生み出し、良心を芽生えさせたのだ、ということになる。

 強制が自主的なものに移行するシステムを、フロイトの理論によって説明しようとするその身振りは、著者がデビューしたころ、「現代思想」や「ユリイカ」(ともに三浦雅士編集長)で活躍していた岸田秀(『ものぐさ精神分析』中公文庫)を思わせるものがある。評論として面白いが、学問的な裏付けはあるようで実はない、という共通性もある。

 上記「マゾヒズムの経済論的問題」からの引用は、後期フロイトの「超自我」を生み出す心理的システムの説明でもある。第一次大戦で母国オーストリアが敗れ去ったあとに生まれた、フロイトの思想であった。「超自我」とは、自己愛的な「自我」を抑制する倫理的存在のことである。

 戦争神経症(シェルショック、PTSD)に苦しむウィーンの元兵士たちを診察したフロイトは、罪悪感こそがショックを克服する無意識の能動性を示すものであり、PTSDは「超自我」を形成するために必要な症状だと気づく。

 すなわち、従軍では人の「死の欲動」は外に向けられ、攻撃性としてあらわれている。それが敗戦という外部の力によって断念させられると、その欲動は、強引に内面に方向転換され、今度は自己を攻撃するようになり、そこから罪悪感が生み出される。それが契機となり、自己愛しか存在しなかった内面から自己が消され、外部の「文化」が内在化していく。ここで形成されるのが「超自我」である。

 同時にフロイトは『文化の中の居心地悪さ』(1930年)で、「超自我は集団(共同体)のなかにより顕著にあらわれる」と書き、「文化」とは「共同体の超自我」のことである、とも説いている。つまり強制された良心が、個人および共同体に定着し、さらに自らを抑圧する方向に向かって形成され、内在化したものが「文化」なのである。

 第二次大戦後に生まれた憲法9条は、いわば強制された良心である。フロイトのシステムに乗っかるならば、9条は外部より強制されたからこそ、「文化」としてより強固に定着し、日本人の内面に強固に定着されたといえるわけだ。

 このシステムは、理論的応用がきくばかりでなく、歴史的反復としても使えるのだ、と著者は書いている。つまり先に触れた「自主的憲法について」の講演で、憲法9条と明治憲法と開国を等価に論じたことも有効になるのである。

 第一次大戦と第二次大戦という大きな惨禍のあとに形成される「超自我」の反復性は、さらに過去にも遡ることができる。それを著者は「先行形態」と呼んでいる。

 日本において「先行形態」と呼べるのは、戦国時代の惨禍のあとの「戦後」体制である徳川体制である。江戸幕府は必然的に「超自我」を形成し、それによって江戸期は天下泰平となり、象徴天皇制が生まれた。戦後憲法はこの象徴天皇制を反復した。つまり現在という時代は先行形態、いわば過去の「集合的無意識」に縛られているということになる。

 ただこの論理に従えば、徹底的な非戦を謳う憲法9条の素晴らしさは、日本独自の先行形態の賜物である、という自己愛に陥ることになりはしないだろうかということだけは、指摘しておきたい。本書後半部分で著者は、国連形成の理念的基礎となったカントの『永遠平和のために』についてさまざまに論及するのだが、『永遠平和のために』の理念である「絶対平和」が憲法9条に書き込まれたのも、日本人独自の「超自我」に由来するものだ、と言わんばかりの勢いなのである。

 そういったことを考えるためにも、実はこの新書は、「あとがき」から読んだほうがよいかもしれない。講演録のゲラを読みなおし、著者校正とともに書きおえたと推測される「あとがき」は、新書としては異例なほど長めであり、著者自身による巧みな「書評」になっている気もする。

 「あとがき」で著者は、当初自分は歴史的文脈は60年周期で反復されると考えていたが、21年前に120年周期が正しいと気づいた、と書いている。この著書のいう「歴史の反復」が真実ならば、やがて日本人の「死の欲動」は外部へと向かい、戦争の時代を迎えることになるだろう。そして今度も、再び「超自我」を形成することになる。まさにフロイトの「反復強迫」の輪廻。暗澹たる日本の未来を見据えた予言の書、という評価もまたありうるかもしれない。

 ともあれ、ユニークな憲法論を読みたい人は必読であるし、昔ながらの柄谷ファン(わたし)にとっては、変わらないことの素晴らしさを実感させる、得難い新書ではあった。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

筆者

上原昌弘

上原昌弘(うえはら・まさひろ) 編集者・ジーグレイプ

1961年生まれ。早稲田大学第一文学部演劇科卒。大学時代、産経新聞と北海道新聞と新書館(後に入社)の3社かけもちで働く。卒論はヒッチコック。月刊コミック誌、バレエ雑誌、思想誌『大航海』などを編集。また書籍では、川本三郎『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞受賞)、『小津安二郎全集』、『車谷長吉全集』(いずれも新書館)などを編集。