民衆のエネルギーが充満していた「大正」を読み直す
2016年08月19日
今世紀の「NHK 朝ドラ」の最高視聴率を記録した「あさが来た」の最終回近く、主人公白岡あさ(波瑠)に平塚らいてう(大島優子)が近づき、あなたは確かに今の時代では「新しい女」かもしれないが、私はあなたを超える「新しい女」になると宣言する場面がある。その場面を見ながらぼくは、「そしてあなたもまた、ある女性に超えていかれるんだ」と呟いた。
その女性こそ、らいてうが創刊する『青鞜』の編集長を引き継ぐことになる伊藤野枝である。
“まず私は今までの青鞜社のすべての規則を取り去ります。青鞜は今後無規則、無方針、無主張無主義です”
前にWEBRONZAでも『現代暴力論』を紹介した栗原康が、今年3月に『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(岩波書店)を上梓した。
福嶋聡 「暴力」について改めて考えさせられた本(上)――廣瀬純『暴力階級とは何か』、栗原康『現代暴力論』
「ひどい、ひどい」「やったぜ」「やばい、しびれる、たまらない」「こわいこわい」と、野枝と共に怒り、野枝と共に歓喜し、野枝に心酔して、時に畏れる。
栗原が野枝を代弁しているのか、野枝が栗原を代弁しているのか、時々わからなくなる。相互に憑依しているかのような文章が続くのだ。
栗原が、野枝が訴えるのは、「徹底的に、何に関しても例外なく自由であれ」ということである。
自由とは、そんなに七面倒くさいものではない。人間が何ものにも束縛されない状態である。そう、野枝の28年の人生は、自分の意思を阻む障壁を乗り越え、束縛から逃れ続ける人生であった。
地元の高等小学校卒業後、郵便局に就職した野枝だったが、本が読みたい、勉強をしたいと切望する気持ちが募り、手紙で思いのたけを伯父に報せ、理解を得て上京、その伯父の家に住み込み支援も受け、見事上野高等女学校に入学する。だが、卒業後、恩人である伯父の決めた結婚話に抵抗を続け、遂には祝言後に出奔、かねて行為を抱いていた上野高等女学校の教師辻潤の元に走る。
“もちろん、おじさんには女学校にいかせてもらった大恩がある。でも、それはあくまで親切心でやってもらったことであって、おじさんのわがままにつきあう必要はまったくない”
“自由恋愛にルールだなんだのといって、経済的自立や別居を求めていたことのほうがおかしいのである。恋愛は自由だ。好きなときに、好きなだけ愛欲をむさぼればいい”
こうしてみると、野枝は、まるで愛欲の赴くままに生きた女であるかのようだが、野枝の恋愛観はそうではない。
たしかに「セックスは、やさしさの肉体的表現である」が、「だいじなのは、
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