引き裂かれた原節子の内面
2016年08月30日
『晩春』において、「子殺し」と「父殺し」の主題をよりドラマチックに引き出すために打たれた布石として、原節子が宇佐美淳と並んで湘南の海岸をサイクリングするシーンが意味するものについて、前回は、自転車を漕ぐ原節子の胸やお尻の動きから表出されてくる性的イメージについて、私の目が見抜いてしまったものを記したわけだが、問題は、小津安二郎監督が、なぜこのような、見える者の目には見えてしまうという、あからさまな形で原節子の身体生理そのものから放出される「性」に対する本能的欲求、あるいは願望を写し撮ったのかということにある。
以下、この問題についてさらに踏み込んで検証していきたいが、その前に、このサイクリングのシーンが意味するものについて、私の「目」が読み取ったものをもう少し詳しく記しておきたい。
まずはじめに、画面の流れを再現しておくと、前回詳しく見たように、カメラは節度のある距離を保ちながら、やや危なっかしい姿勢で自転車を漕いでいく原節子の下着が透けて見える背中や肉感も露わなお尻、さらには乳房や乳首のふくらみを、見えるものには見え、気がつく者には気がつくといった形で、かなり執拗に低いアングルから追ったあと、画面右手、引いた距離から波光きらめく湘南の海をバックに疾走する原節子と宇佐美淳を映し出す。
やがてカメラは切り替わり、原の前方、斜め下から風になびく黒髪を手でかき上げ、幸福そうに瞳を輝かせ、笑顔で疾走する原を映したあと、にわかに左後方、斜め下から見上げる形で、英語で「NO 154」、「CAPACITY 30 TON」と書かれた木製の道路交通標識と、「SPEED」、「時速35哩」、「35MPH」と3段に分けて書かれた速度制限標識が映り、原と宇佐美がその横を走り抜けていく。
写真1の江の島を望む稲村ヶ崎の辺りから撮られた明治末期発行の手彩色絵葉書の画像を見れば分かるように、当時は、舗装もされておらず、農夫が馬車を引いてのんびり歩むローカルな道に過ぎなかった。
それが、1920(大正9)年に県道に指定され、さらに昭和恐慌の影響で失業者が増大するなか、1930年から神奈川県が失業対策事業として、道路の整備・拡張・延長工事を行い、横須賀から神奈川県中央部の大磯まで、海岸線に沿っておよそ60キロをつなぐ工事が、1935(昭和10)年7月に完成し、「湘南海岸道路」として開通。戦後の1953(昭和28)年に二級国道134号横須賀大磯線に指定されたうえで、1965(昭和40)年に一級国道に格上げされ、今日に至っている。
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