森川すいめい 著
2016年09月09日
日本の自殺者の数は年間2万4000人ほど(2015年)。何分間に一度亡くなっているかカウントしてみてくださいと言う人がいたが、およそ20分間に一人になる。ちょっとした時間のうちに、誰かがどこかで自ら命を絶っている。自殺者がいくら減少傾向にあるとはいえ、尋常ではない。WHO(世界保健機関)は変死者の半数を自殺者として類推するというが、これでいくと日本の場合、10万人を超えてしまう。「日本はいい国だ」なんて易々と言ってはいけない。
本書は、精神科医の著者が全国の「自殺希少地域」5カ所を歩いたレポートである。徳島県旧海部町(現・海陽町)、青森県風間浦村、青森県旧平舘村(外ヶ浜町)、広島県下蒲刈島、東京都神津島。ほとんどが僕にはなじみのない地方の小さな村だ。
『その島のひとたちは、ひとの話をきかない——精神科医、「自殺希少地域」を行く』(森川すいめい 著 青土社)
だから、現地を訪ねても調査であるような態度は出さない。バレたらバレたにまかせるというふうで、精神を病んだり悩みを抱えた人をあえて訪ねるでもなく、ただ村人たちと話をし、ゆるやかに時間を過ごすのみだ。
夕食を食べるところに困って、村の人に車で店に連れて行ってもらったり、大型連休中に歯が痛くなって救急のみ応じている病院に相談したところ、「歯が痛いひと」として近所で有名になっていたり。雑貨屋で櫛を求めたら「おばあちゃんの形見の櫛」をもらってしまう。自宅が目の前にあるのに、家にいるとひとりぼっちになるのでバス停のベンチで座っているという老人と言葉を交わしたりも。こうしたエピソードが淡々と、静かに、綴られていく。
こう紹介すると、都会で失われたものが残る地方を礼賛した本かと早合点されるかもしれない。あるいは、ネットで人と人が常時接続されているいまの時代、こういうリアルな人間関係に腰が引けるかもしれない。
だが、これらの土地は、そういう単線的な地方観からは遠い場所でもあるようだ。居心地が悪くて出て行ったり、都会から来て住み始めたものの違和感が抜けないという人たちもいて、誰にも暮らしやすい土地というわけではないのだ。
ただ、どこにも共通しているのは、人との距離感。自殺が少ないというと、人と人とのつながりの「濃密さ」を想像しがちだが、それは逆。いや、正確に言えば、その濃淡の案配が絶妙というべきか。外ですれ違えば、みな挨拶はするのだが、名前を知らない「知り合い」がたくさんいたりする。人との関係は「多い」けれども「疎」。
通りがかりの家でトイレを気軽に借りられたりする。人を助け慣れ、助けられ慣れている。だが、助けるときは相手に返事をゆだねない。「どうしますか?」とは聞かない。「こういうのがいいと思うんだけど、どう?」と聞く。著者が商店でパンを買ったら「カレーあるからもっていきな」と言われる。「あるけど食べる?」とは聞かない。相手が余計なことを考えるいとまもない。だが、押しつけがましいとも思わせない。
人の話は聞くけれど、興味がなければ簡単に同調しない。自分の考えをもっている。それゆえに、他人の考えも尊重する。自殺者の少ない地域というのは、 「自分をしっかりともっていて、それを周りもしっかりと受け止めている地域である」。
遠く離れた小さな村で、こうした特徴があることの不思議。著者はそこには深く立ち入らない。代わりにというべきか、精神を病んだ人と医者、家族など周辺の人たちが対話を続ける「オープンダイアローグ」という治療法を紹介する。入院させて社会から隔離したり抗精神病薬に依存する治療とは対極の手法が、まるでこれらの村で日常的に実践されているかのようなのだ。
「ひとがとりまく環境とうまく対話ができなくなったときに、ひとは病む」
ではその対話とは何か。「対話」で相手を変えようとしない。対話で自分がどう変わるか。その変わった自分を相手が見る。「自分がどうしたいのか」のための対話。書名にあるように、「ひとの話をきかない」という言葉の含意はおもいのほか深い。
こうなると、この本は地方を描いた本にとどまらないことがわかる。どんな大きな街に住んでいようが、そこは、家庭、地域、職場・学校……といったコミュニティの「集積」だと考えれば、都市生活者への示唆も少なくない。もちろん、そんな大仰に構えなくてもいいのかもしれない。著者の体験を追っていくだけでも静謐な時間を過ごせる、豊かな本だ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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