イレギュラーな怪物退治譚、<近隣>の恐怖など
2016年09月08日
黒沢清のスリラー映画は、『クリーピー 偽りの隣人』がそうであるように、しばしば<イレギュラー/変則的な怪物退治>という形をとる。
つまり、一方に怪物を退治する側のヒーロー(探偵や刑事など)がいて、他方に倒されるべき邪悪な怪物がいるという、いわば善悪の二項対立が大きく揺らいでしまい、善悪の境界は消えかかる。一度ならず、ヒーローが怪物に操られそうになったり、ヒーローがかぎりなく怪物に接近したりもする(むろん、『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミや『タイトロープ』のリチャード・タッグル、あるいは『その男、凶暴につき』の北野武のように、黒沢以外の監督も<変則的怪物退治>の映画を撮ってはいる。だが彼らは、そうした映画を、黒沢ほどの頻度と執着で撮っているわけではない)。
ヒーローは、不意に出現した怪物に不用意に近づきすぎた結果、身を誤るのであり、いわば怪物との距離のとり方に失敗するわけだ。
たとえば『クリーピー』では、犯罪心理学者の高倉/西島が、度を越えた学問的好奇心から一家失踪事件の解明にのめり込んだ結果、自分を見失い、怪物・西野にマインド・コントロールされかかる。
それはちょうど、前記『CURE』に登場する精神科医・うじきつよしが、やはり学問的興味から、殺人教唆犯・萩原聖人に接近しすぎた結果、あえなく“狩られて”しまったのと同様の事態だ。
もっとも高倉はうじきとは違い、あわやというところで窮地を脱する。むしろ『クリーピー』では、やはり尋常ではない執念で事件の真相に迫ったものの西野に焼殺される野上刑事/東出昌大が、『CURE』のうじきと同じような――まさしく“ミイラ取りがミイラになる”という――運命をたどる(うじきも野上/東出も、ヒーロー/主人公ではなく脇役だが)。
なお『CURE』では、主人公の刑事・役所広司が、『クリーピー』の高倉と同様、いったんは怪物に屈服しそうになるが、ラスト、起死回生の一発逆転で怪物を倒す(ただし『CURE』は、怪物を倒した者が新たな怪物になるという、結末ならざる結末を迎える点が『クリーピー』とは異なる)。
また黒沢の知られざるホラー&スリラーの傑作、『DOORIII』では、ヒロインの保険外交員・田中美奈子が、中沢昭泰扮するフェロモン男(!)――体内に宿した寄生虫の持つフェロモンを接吻によって女たちに感染させ、彼女らを次々とゾンビ化して服従させる魔人――の誘惑を辛くも振り切り、その怪物を退治したのち、やはり自らが新たな怪物になる(ヒロインはもとより正義や法の体現者ではないが)。
あるいは、黒沢ホラーの原点ともいえる『地獄の警備員』(これまた傑作!)は、ヒロインの久野真紀子と元力士の殺人鬼・松重豊の擬似恋愛めいた関係を軸に展開する、文字どおりイレギュラーな怪物退治映画だ(なぜあなたは人を殺すのか、という久野真紀子の問いに対し松重は、俺の体にはおまえたちとは違う時間が流れている、と答えるが、この彼の言葉は、『クリーピー』冒頭で登場する連続殺人犯・馬場徹(後述)の、俺には俺自身のモラルがあるというセリフに通底している)。
さらに怪物退治譚ではないが、主人公の刑事・役所広司が、過去に犯した過失への罪悪感から赤い服の女の幽霊を見るようになり、アイデンティティ危機に陥るホラー『叫(さけび)』では、副人物の刑事・伊原剛志がその幽霊に殺害される場面がある――。
いずれにせよ、黒沢清のサイコ・スリラーではしばしば、善や正義を体現するはずのヒーローが、退治すべき怪物の魔に魅入られ、自らの拠って立つ法的・倫理的な足場を失いかけるのだが、まさにその点にこそ、黒沢スリラーの恐怖と魅惑の核心がある。むろん『クリーピー』でも、物語の定点であるはずの犯罪心理学者・高倉が、西野に翻弄されアイデンティティ危機に陥ることで、観客の恐怖は増幅される。
西野はまた、例の話術によって、高倉の妻・康子/竹内結子の心の隙にもつけ入り、ついに
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