メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[書評]『沖縄戦・最後の証言』

森住卓 著

野上 暁 評論家・児童文学者

不撓不屈の戦いの原点にある壮絶な体験  

 サブタイトルは、「おじい・おばあが米軍基地建設に抵抗する理由」とあり、カバーの半分をおおう帯に、深く年輪を刻んだおばあの顔のアップ。そして「戦わないために、今、闘っている」のキャプションが入った、まさに著者渾身のフォトドキュメントである。

『沖縄戦・最後の証言——おじい・おばあが米軍基地建設に抵抗する理由』(森住卓 著 新日本出版社) 定価:本体2000円+税『沖縄戦・最後の証言——おじい・おばあが米軍基地建設に抵抗する理由』(森住卓 著 新日本出版社) 定価:本体2000円+税
 名護市辺野古や東村高江で、米軍基地建設強行に反対して座り込みを続けている「おじい」「おばあ」は、なぜ不自由な体を押して抗議を続けるのか。

 現地を取材し続けてきたカメラマンは、「悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない」と、強固な意志で座り込みを続ける「おじい」「おばあ」に、そのエネルギーのもととなった沖縄戦の体験を聞く。いったん戦争が起これば、基地が真っ先に攻撃の対象になり、あの忌まわしく凄惨な状況が再び繰り返されかねないからだ。

 冒頭に、沖縄戦で亡くなった人々に思いをはせる月桃の花をアップで配し、命をはぐくむ辺野古の海、この海を埋め立てて新基地を作ろうとする政府に対する県民大会、抗議行動を弾圧する警備会社の人たちのアップ、市民に襲い掛かる機動隊と、ページいっぱいのモノクロ写真が29ページ続く。

 キャンプ・シュワブゲート前に、まだ薄暗いうちから座り込む人々、それを実力で排除する機動隊員。警官による人権侵害が日常的に行われているという。

 本文中に挟み込まれた、子どもの通学路を武装して歩く海兵隊の姿や、市街地を低空飛行する米軍機、キャンプ・シュワブの浜で上陸演習をする水陸両用装甲車の写真などを見ると、まさに戦場そのものだ。これが沖縄の現実なのだ。

 アジア太平洋戦争末期、沖縄戦で辛うじて生き残り、当時の記憶を語れる人たちは、おおむね80歳を超えている。1945年3月、米軍は54万人以上の兵力と1500隻の艦隊で島を包囲し、凄まじい地上戦が繰り広げられ、日本軍の命令による「集団自決」など凄惨な事件が各地で起こった。この無謀な沖縄戦で、県民の4分の1にあたる12万人以上の人が亡くなった。

 キャンプ・シュワブゲート前で座り込みを続ける島袋文子さんは、辺野古に住む87歳。沖縄戦当時15歳だった文子さんは、兄たちは防衛隊にとられ、家に残った目の不自由なお母さんと10歳の弟と3人で、艦砲射撃や機銃掃射の中をたくさんの死体を避けながら逃げ回り、お腹が裂けて内臓が飛び出している光景などを目にしたという。弟が水を飲みたいというので、砲弾が落ちた後にできた水たまりを暗闇の中で見つけ、弟と母に水を飲ませ、自分も飲んだ。明るくなってその場に行ってみると、水たまりには住民や日本兵の死体がいっぱい浮いていて、水は死んだ人の血で真っ赤だったという。

 3畳ほどの壕に4家族が一緒に隠れ、外から米兵が「デテコイ」と叫んでも、「捕虜になったら、男は戦車でひき殺され、女は裸にされて辱めを受ける」と教わっていたから、捕虜になるより死んだほうがましだと、出ていかなかった。すると穴の中に手榴弾が投げ込まれ何人かが亡くなった。それでも出ていかなかったら、今度は火炎放射器が壕に向けて噴射され、息もできず苦しくて両手をあげて出ていったと文子さんは語る。その時の火傷やけがの跡が、今も全身に残っている。

 日本政府は、1944年7月、沖縄戦の足手まといになると、高齢者や子ども10万人を船で本土へ疎開させる計画を決定する。既に制海権は奪われているから、潜水艦の魚雷にやられる危険性は高い。そんな中、国民学校の児童800人以上を含む1800人近くが乗って那覇港を出た対馬丸に魚雷が命中し、1500人が亡くなった対馬丸事件が起こる。

 後に小説や映画にもなった悲惨な事件で、子どもの生存率は7パーセントだったというが、その時辛うじて生き残った平良恵子さんは81歳。船が爆発して燃え上がる中を海に飛び込み、偶然流れてきた醤油樽につかまって何とか生き延びた凄惨な体験を語る。一緒に行った従妹を見失い、死なせてしまった罪障感にずっとさいなまれてきたという。「戦争を起こしたのは国だから自分は被害者だと思っていたけど、加害者でもあったのか? そういうふうに思うことがあるんです」と述べる。

 戦後、教師の道を選んだ恵子さんは、同じ苦しみを子どもたちに体験させたくない、だからどこにでも出かけて、子どもたちに平和の語りをしているという。「二度と戦争を起こしてはいけない。戦争のための基地を絶対造らせない。そのために高江に行くんです」と。

 宮里洋子さん(76歳)は、集団自決の生き残りだ。海上特攻隊の秘密基地になっていた慶良間諸島の座間味島では、「四方を海に囲まれた小さな島で逃げ場を失った住民は、自決用に日本兵から配られた手榴弾やカミソリ、鎌、農薬、ネズミ駆除の農薬などで妻を、子を、弟を、母を、肉親を次々と殺していったのです」と語る。

 当時10歳で集団自決の現場にいた宮里哲夫さんは、2014年に亡くなったが、生前のインタビューで、国民学校の校長先生や近所の家族と避難した、日本軍が弾薬庫として掘った壕の中での凄惨な様子を語っている。

 米軍が上陸してきたことを知った校長先生は、「天皇陛下万歳をしましょう」といって万歳三唱した。その後、自決用に軍が配った手榴弾が壕の奥で爆発し、奥からうめき声や悲鳴が聞こえたという。壕の入り口近くだったため無事だった校長先生は、鞄から出したカミソリで奥さんの首を切り、次いで自分の首を切った。血が噴き出して、向かいに座っていた哲夫さんの体に降りかかってきた。

 宮里洋子さんの母も、弟と姉の首をカミソリで切ったが、怖くなった洋子さんは「死にたくない」と叫んで壕を飛び出し、3人とも生き延びた。「座間味には、傷を隠すために、戦争が終わった後も首に布を巻いている人がたくさんいました」「座間味島の『集団自決』では177人が亡くなりました。肉親同士が殺し合うこの凄惨な事件は、小さな島では誰もが知っていたことでした。しかし、ずっと誰もが口に出してはいけないタブーになっていたんです」と洋子さんは言う。

 朝鮮半島から連行してきた女性たちを、日本兵のための慰安婦にしていた料亭の記憶。当時13歳だった伊佐真三郎さんは、親戚の料亭に遊びに行き、色白の優しいお姉さんに三線を教えてもらっていた。2階には40~50人の兵隊が並んで待っていた。おかみさんがお姉さんに「早く2階に上がりなさい」と言う。お姉さんは「今日は痛いから休みたい」と言ったが聞き入れてもらえず、2階に上がった。着物の裾から見えた奥の方が真っ赤に腫れていたが、伊佐少年にはその意味がわからなかったという。

 師範学校の生徒と教師による「鉄血勤王師範隊」として、戦場を彷徨した87歳の古堅実吉さんは、腐乱した母親の死体の上を赤ちゃんがお乳を求めて這いずり回っている光景を目の当たりにする。基地は戦争のためにある。戦前は大東亜共栄圏、アジア平和のためなどと言っていたが、安倍首相の「積極的平和主義」も全く同じ。戦争につながる基地に反対し、平和と民主主義のため闘い続けるという。

 辺野古、高江の新基地反対闘争の原点には、壮絶な沖縄戦体験があるのだ。戦中戦後を通して、二重三重に虐げられながらも、不撓不屈の強靭さで権力に立ち向かう、沖縄のおじい・おばあたちの言葉の端々から、混迷する日本の未来への期待が示唆されているようでもある。この証言の重さを、なんとか次世代につないでいかなければならない。

 キャンプ・シュワブのゲート前で、立ち止まると機動隊が出てきて一斉排除するのだが、動いていたら規制できない。機動隊と対峙しながら、規制されそうになると、三線と指笛を響かせてにこやかに踊り出す、優柔不断の戦い方を現場で見ていると、大らかでしたたかな琉球文化の伝統が息づいているようでもある。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。